青い金魚


 ぼくは、最近ひどい孤独感に悩んでいた。
 仕事から帰ってきても、真っ暗で何もない部屋は、ぼくの心をますます孤独にしていった。
 その日は、うだるような暑さで、目が覚めた。西日がベッドに降りそそぐ。
 たまの休みだというのに、ベッドの中で、一日を終えようとしている。
(起きようか…いや、このまま寝ている方が、幸せかもな。)
 ぼくは、枕元にあるリモコンのスイッチを押した。
 ひんやりと涼しい風が、西日の暑さを和らげてくれる。気持ちいい。このまま夜まで眠ろう。ぼくは、目を閉じた。
 ふいに、寂しさが、襲いかかってくる。
(今日も、誰とも話さないままで終わってしまうのか。寂しい。ぼくは、寂しい人間だ。)
 たまらず、テーブルに手を伸ばす。
「テレビ…テレビ。」
 手元のスイッチを押すと、ブンと電源のはいる音がした。じわじわと人の気配を感じる。たとえ、幻であっても、ほんの少し、寂しさを和らげてくれるのだ。
 かわいらしい犬が、ぼくを見つめている。
 ペットフードのCMが流れていた。
「そうだ! ペットを飼おう。そうすればきっと部屋の中も、あったかく明るくなるに違いない!!」
 思い立ったら、ジッとはしていられない。時計を見る。
「まだ、5時だ。今からなら、間に合うだろう。」
 ぼくは、簡単に身支度をすると、愛車のエンジンをかけた。
 そして、ちょっと街の外れにあるペットショップに向かった。
 店に着くまでの間、いろんな事を考えた。
「うーーん、犬が欲しいなぁ…けどうちはマンションだから飼えないかぁ。猫もダメだよなぁ。ハムスターやウサギなら大丈夫かなぁ。爬虫類は嫌だしなぁ。やっぱり触れてあったかいペットがいいなぁ…。名前はどうしようかなぁ。」
 ぼくの心は踊った。こんなにわくわくしたのは、久しぶりだった。
 考えながら走っていると、ペットショップが見えてきた。
 駐車場に車をほりこむと、大急ぎで入り口に向かった。
 思っていたよりも、店内はにぎわっていた。
 スーッと、自動扉が開き、おそるおそる店内に入った。
 愛くるしい目をした子犬達が、ぼくを見つけ、小さいカゴの中から懸命にしっぽをふっていた。
 子犬達が「私を飼って!!」と小さなしっぽで、ぼくを責め立てる。
「ダメダメ! ぼくは君たちを飼ってあげる事は出来ないんだから」心の中でつぶやいていると、子犬達は ぼくにしっぽをふるのを止め、プイッとカゴのすみで、うずくまってしまった。
(ちぇっ、寂しいもんだなぁ)と思いながら店内をぐるりと一周した。
「はぁ…何にしようか……」
 小さなかごの中からの、「私を飼って」と訴える視線に、ぼくは疲れてきた。
「いらっしゃいませ!」
 背後で、声がした。
 振り返ると、愛想のいい中年の男性が、青い派手なエプロン姿で立っていた。
 どうやら、この店の店主のようだ。
 ぼくは、いいことを思いついた。店主に自分に合うペットを決めてもらおう。
「あの…マンションでも飼えて…あったかくって…可愛いペットってなんですかねぇ」
 思いきって、たずねてみた。
「お客さん、最近寂しくって仕方ないんでしょう?」
 店主は、そう言ってほほえんだ。
 ぼくは、ドキリとした。
 店主は、しばらく店内を見渡して考えていた。
 ぐるりと一周した視線は、ある水槽の前で、ピタリと止まった。
 それから、しばらくぼくを見つめると、とびっきりに、いい事を思いついた表情を浮かべて、水槽を指差した。
「お客さま、あの金魚になさいませ!!」
「金魚??」
 ぼくは、意外な答えにおどろいた。
 そして、店主の指をさす方向に視線をやった。
「え?」
 水槽の中にいたのは、美しい青い金魚だった。
 大きな水槽の中を、ゆうゆうと泳いでいた。長い尾ビレを、チロチロとなびかせながら。
 ぼくは、店内のペットを全部見たつもりだった。はでな色をした熱帯魚たちにまぎれて、気が着かなかったのか、金魚を飼うことなど、思いもつかなかったせいなのか、さっき見た時とは、まるで違う空間のように思われた。
(これ…本当に金魚なのか?)不思議に思っていると、店主が耳もとでささやいた。
「ほんとに金魚なんですよ。これ。こんな珍しい金魚、うちでしか手に入りませんよ」
「けど……そんな高価な……。」
 と言いかけて、ぼく視線は、水槽の下に付いている値札に向いた。
「店主が、気にいった方にしかおゆずりできません」と書かれている。
「これ、どういうことですか?」
「ええ、私が気にいったお客さまに、この金魚を飼っていただきたいと思いまして……おゆずりするのですから、お代はもちろん無料でございます。」
「ええっ!! もしかして僕にゆずってくれるんですか??」
 ぼくは、声がひっくり返ってしまった。
「お客さまが、ちゃんと飼っていただけるのでしたら、この金魚もきっと喜ぶでしょう」
「もちろん! ちゃんと飼います!!」
 愛くるしい目をした子犬のことも、ミーと鳴く可愛い声も、ぼくの頭の中から消え去った。
 嬉しさのあまり頬があつくなり、美しい青い金魚が、頭の中をぐるぐると泳いでいる。
 感激で、ぼぉっとしているぼくの目に、突然、険しい目をしたの店主の顔がとびこんできた。
「ただし、守ってもらいたい事があります。絶対に守ってくださいよ! この金魚に、見つめられても絶対に目をあわさない事…。」
「はい??」
 おかしな事を言うもんだなぁ…と思いながらもとりあえず返事をした。
「おかしな事を・・そうお思いでしょうが、守ってくださいね。」
 ぼくの心臓は、とびだしそうだった。
「もちろん守ります」
 そう言うと、ポケットからハンカチを取り出し、額の汗をぬぐった。
 この店主、人の心を読めるのでは? 恥ずかしさのあまり、ぼくは早く家に帰りたくなってきた。

 ぼくは、金魚を無料でゆずってもらったので、ディスプレイしている水槽をそのまま全て買うことにした。
 金魚が、この水槽をとても気にいっているような気がしたからだ。
 店主は、最高の笑顔でぼくを見送ってくれた。
 部屋に水槽を置くと、ぼくが思っていたよりも、はるかに美しい空間になった。
 部屋の明かりを消しても、薄明るく青白い光が、水槽を照らしている。
 金魚自身も、まるで光を放っているかのように、妖し気に美しく水槽のなかを、ゆうゆうと泳いでいた。
 暗くて殺風景だった部屋は、幻想的な世界になった。
 ぼくの心は、どんどん青い金魚に、吸い込まれていく。
 仕事から帰ってくると、ずっと水槽の前で時間を過ごした。
 もう、テレビなど、なんの魅力もなかった。
 幻の人の気配は、ただ、やかましくうっとおしいものとなっていた。
 毎日、水槽を眺めていると、この水槽の世界で暮せたら、と思うのだ。
 金魚は、ぼくの気持ちをわかっているようだった。
 ときおり、じーっとぼくの瞳を見つめている。
 ぼくは、あまりに美しい金魚の瞳に、このまま吸い込まれてもかまわない、と思うのだ。けれど、その度に、あの店主の声がおまじないのように、頭の奥の方でかすかに聞こえてくる。
「だめだ。」
 ぼくは、金魚の目を見つめないように、そっと目を閉じるのだった。
 ある日、いつものように美しい水槽の世界をながめていた。
 金魚は、尾ビレをチロチロとなびかせている。
「ああ・・なんてきれいなんだろう・・・」
 ぼくは、大きく溜め息をついた。
 ちろちろと優雅に揺れる青い尾ビレ。
 それはまるで、ぼくを誘っているかのように見えた。
「おいで、おいで。」
 ぼくの思いは、もう止められなくなった。
(水槽のなかで、金魚と一緒に泳いでみたい!)
 金魚の尾ビレを眺めているうちに、だんだんと意識が遠くなっていった。
 気がついた時、ぼくは湖の中にいた。
 目の前には、青い尾ビレを揺らし、人魚が泳いでいた。
 美しい人魚は、きらきらと輝く青い瞳で、ぼくを見つめている。
 目と目があった時、ぼくは、人魚に恋をした。
 人魚は嬉しそうにほほえむと、ぼくの周りをゆっくりと泳いだ。
 ゆらーり、ゆらーり、美しく泳いでいた。
 ぼくは、過去の記憶を失っていった。

 「お前さんもやっと孤独から解放されたんだねぇ。」
 うれしそうに、水槽を眺める男の顔が、ガラスごしに見える。
 男は、どこかで見たような、青い派手なエプロンをしていた。
 けど、もう、そんなことはどうでもいい。
 ぼくは、水槽のなかで、青い金魚と楽しく泳いでいた。






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