ぼくと青い金魚と…


 ぼくは最近、ひどい頭痛に悩まされていた。
 仕事が、忙しすぎるからかもしれない。それとも、寝不足のせいだろうか。
 昨日も夜が明けるまで、チャットを続けていた。
 ぼくは、こわかったんだ。だれかとつながっていないと。
 今日だって、たまの休みだって言うのに、眠りについたのは、空が明るくなってから。目を覚ました時には、もう夕日も沈みかけていた。
「いてててっ……」
 キリリと痛む頭をかかえ、もそもそと、ベッドからはいでると、一番最初にした事、それは、パソコンの電源を入れる事。
 すっきりとしない頭で、いつものようにキーボードをたたいた。
 画面に、見慣れた言葉が流れていく。
 ぼくは、新しく現れる文字を見て、ほっとした。だれかとつながっているのだと。
 たわいもない冗談を言い合って、少し区切りがついたころで、テレビのスイッチを入れた。
 ブンと電源のはいる音がして、じわりじわりと人の姿が映し出される。
 にぎやかな声に、ほっとして、再びキーボードをたたき始めた時、テレビから流れてきたニュースが、ぼくの手を止めた。
 そのニュースは、一羽の鳥の死を告げるものだった。この国で、最後の一羽となっていた朱鷺が、死んだのだ。
 人生のほとんどを、ケージの中で過ごしてきた朱鷺は、最後に大きく羽ばたいて、ケージの扉に衝突した。
 仲間を探しに行こうと、翼をひろげたのだろうか。果てしなく広がる空を、思いきり飛んでみたかったのかもしれない。
「やっぱりおまえも、淋しかったのか?」
 なんだか切なくなって、ぼくの頭は、またずしりと重くなった。
「ひとりぼっち……」
 画面に写し出される朱鷺から、声が聞こえたような気がした。

 ぼくは去年の春、この街に越してきた。
 この街に憧れて、遠い北の故郷を旅立った。胸いっぱいに、夢をつめこんで。
 けれど、夢はあっという間に、儚くしぼんでいった。
 現実もこの街も、ぼくには厳しいものだった。
 この街には、人があふれている。人だけじゃない。さまざまなものが、ぼくの故郷とは比べものにならないくらいに、あふれかえっている。
 それなのに、ぼくの心を満たしてくれるものは、何一つみつけられずにいた。
 ぼくは「何か」を探し求めて、情報雑誌とテレビにすがりついた。
 新しい店ができると、必ず見に行った。
 行列のできる店があると、本当に美味しいのかどうかも、わからないまま並んだ。
 携帯電話も、新しい機種が出るたびに、買い替えた。
 しだいに、ぼくには、時間もお金も足りなくなっていき、どんどんとぼくは、ぼくでなくなっていくのを感じていた。
 それでも、ぼくは、この街とつながっていたかった。
 そうして、ようやくたどり着いたのが、パソコンだった。小さなモニターの中に、つながりをみつけることができたんだ。
「ぼくは……一人なんかじゃない」
 自分に言い聞かせるよう言ってみて、煙草をきらしている事に気がついた。
 ふと時計を見ると、十時を少しすぎたところだ。
「まだ、これから長いしな。買いに行くか」
 ぼくは、Tシャツの上に、Gジャンをはおると、コンビニへと向かった。

 空気がすんでいるのだろうか、めずらしく、星がくっきりと瞬いて見える。数えるほどしか見えないけれど、それでも、オリオンを見つけるとうれしくなる。
 ぼくの故郷では、いつだって、降りそそぐように星が輝いていた。
「もう一度、見たいな。本当の星空」
 やっぱり、この街には、ぼくの居場所はないのかもしれない。もしかすると、深い深い闇の中に、迷い込んでしまったのだろうか。
 そんなことを思いながら、一歩、二歩と、足を進めると、右に入る細い路地の奥で、看板をぼんやりと照らしている、小さな明かりが見えた。
「あれ? あんなとこに、店なんかあったっけなぁ?」
 新しくできた店かもしれない。
 ぼくの足は、明かりに引きよせられるように、勝手に進んでいく。
「ペットショップ・ミドリ」
 明かりに照らされた看板には、そう書かれていた。
 ぼくは、幽霊でも見ているような気持ちになった。こんな夜遅くにペットショップだなんて、なにか妙な感じがする。それに、新しくできた店ではなさそうだ。看板には、さびが浮いていて、かなり古びていた。
「おかしいなぁ。こんな店を見るのは、今日がはじめてなんだけど」
 どうしようかと、ためらいながらも、ぼくは入り口のドアを、開けてしまったのだ。
 カランカランとベルの音がして、中からかわいた声がした。
「いらっしゃい」
 店の中に足を踏み入れて、ぼくは言葉をつまらせた。
「あ、あの……えっと……」
 店内は、がらんとしていて、真っ白な空間に、小さなテーブルといすが一組、置いてあるだけ。
「この店も、今日でおしまいだからねぇ。もう、みんな片づけてしまったのさ」
 店の奥から、ひょこひょこと出てきたおばあさんが、申し訳なさそうに言った。
「あ、いえ、そのぅ……すみません。明かりがついていたもんだから、つい、のぞいてみたくなって……どうもおじゃましました」
 ぼくが、いそいで店を出ようとすると、
「ちょっ、ちょっと待っとくれよ」
 と、おばあさんが、あわててぼくを引き止めた。
「せっかく来てくれたんだし、お茶でもごちそうさせとくれ。あんた、最後のお客さんだし、それに、一つだけ、やり残したことがあって……ちょっと手伝ってくれない?」
 ぼくは、おばあさんに勧められて、いすに腰かけた。
「手伝いって、何をすればいいんですか?」
 おばあさんは、奥から、しずしずとお茶を運んでくると、ぼくの目をじっとみつめた。
「まぁ、冷めないうちに、おあがりよ」
 おばあさんが、運んできたお茶は、鮮やかなコバルトブルーをしていた。ゆらゆらと湯気が立ち上る。
(こんなお茶、飲めるのだろうか?)
 ぼくは、初めて見るお茶の色に、目をしばしばさせた。
「フフフ、驚いたかい? あたしが特別にブレンドしたハーブティーだよ。飲んでごらん。おいしいんだから」
 おばあさんの勧めに、とまどいながらも、一口だけお茶をすすってみる。
 なんともいえない、さわやかな味が、口中にひろがった。
「ああ、おいしい」
 ぼくは、ため息をこぼすようにつぶやくと、ソーサーにそえられていたレモンスライスを、カップにそっと浮かべてみた。
 お茶の色が、すぅーっとコバルトブルーから淡い赤紫色へと変わっていく。まるで、夜が明けていくみたいに。
「そう、夜は、明けるものなのよ」
 突然、おばあさんが、ぼそりともらした言葉に、ドキリとした。心の中までのぞかれているような気がしたのだ。
 焦ったぼくは、話をきりだした。
「で、ぼくは、何をすればいいんですか?」
 ぼんやりとした明かりのせいだろうか、おばあさんの肩にかけられた白いショールが、ときおり、やわらかな薄紅色に輝いて見える。ぼくは、この美しい色をどこかで見たような気がした。けど、どこで見たのかは、思い出せない。
「あんたに譲りたいものがあるんだよ」
「ぼくに? ですか?」
 おばあさんは、大きく首を縦にふると、またいそいそと、奥へ入っていった。
「これをね、あんたに飼ってもらいたいんだ」
 おばあさんが、そう言って運んできたのは、ガラスの金魚鉢。
「これを、ぼくに?」
 ぼくは、金魚鉢を見て、息をのんだ。
 中でユラユラと泳いでいたのは、さっき飲んだお茶のような、鮮やかなコバルトブルーの金魚だったのだ。
 こんな美しい金魚を初めて見る。
 そのあまりの美しさに、ぼくの胸は、部屋中に響きそうなくらいに、ドックドックと波打っていた。
「これって……これって、ほんとうに金魚?」
「そう。珍しいだろう」
 金魚は、長い尾びれをチロチロと揺らしながら、じぃっとぼくの方を見つめていた。
「やっぱりね。そうだと思ったんだよ」
 おばあさんは、満足そうに笑みを浮かべた。
「は?」
「あんた、気に入られたんだよ。この子にね」
 ぼくは、この美しい金魚に、気に入られたことが、たまらなく嬉しかった。
「もちろん、引き受けてくれるよね?」
「はいっ!」
 ぼくは、金魚を譲ってもらうことにした。
「よかった。あたしは、もうここにはいられないからね、最後に残ったこの子のことだけが、心配だったんだよ」
「どこかへ引っ越すんですか?」
「ああ、ちょっと、遠い国に行くんだよ。この店、おじいさんが、残してくれたんだけどね、もう必要なくなっちゃった。たった今、最後の仕事も終わったし。あんたに出会えてよかったよ」
 おばあさんの瞳は、もう遠い国を見ているようだった。
「ぼく、ちゃんと金魚の世話しますよ。安心してください」
 ほわほわと嬉しさがこみ上げてくる。こんなに美しい金魚を、譲ってもらったのだ。
「ああ、まかせたよ」
 おばあさんは、目を細めて金魚を見ていた。
「お茶、おいしかったです。ごちそうさま。じゃ、もう遅いんで、帰りますね」
 金魚鉢をかかえて、店を出ようとすると、
「あ、そうだ」
 おばあさんは、スカートのポケットから、小瓶を取り出し、ぼくにくれた。
「これ、きっといつか、あんたの役にたつよ」
「ありがとう。おばあさん、お元気で」
「ああ、あんたたちもね」
 いつまでも、おばあさんの白いショールが、ゆぅら、ゆぅらと、ゆれているのが見えた。
「それにしても……」
 小瓶の中で輝く青いうろこを、ながめてみた。
 これが、いったいなんの役にたつというのだろうか。
「きっと、お守りかなにかのつもりなんだろうな」
 ぼくは、小瓶をポケットにほりこんだ。
 そして、頭が痛いのも、たばこを買うのも忘れて、急いで家へ向かって歩き始めた。

 部屋に帰ると、ぼくは金魚鉢を、お気に入りのカフェテーブルの上に置いた。
「名前、あったのかな?」
 指先で金魚鉢の縁を、トントンとたたいた時だった。
 ぼくの頭に「瑠璃」と、一つの言葉が、はっきりと浮かび上がってきた。
「きみ……なのか?」
 ぼくの驚いた顔に、金魚は、楽しそうにくるりと回って見せた。
「瑠璃、いい名前だ」
 瑠璃は、うれしそうに、尾びれを揺らす。
「ハハハ、そっか、うれしいんだ」
 こんなに心がときめいたのは、ずいぶんと久しぶりの事だ。
 ぼくは、金魚鉢のガラスごしに、夜が明けていくのを感じていた。ずっとずっと瑠璃の事を見つめていたから。
 それからのぼくの生活は、かわった。
 もうパソコンの電源を入れることもなくなった。テレビも必要ない。いつの間にか、ぼくの頭からは、鉛の重しのような痛みも、消えていた。
 瑠璃とは、今までに感じたことがないくらい、深いつながりを感じていた。
 ぼくが嬉しい時は、瑠璃も尾びれを揺らして喜ぶ。ぼくが悲しい時は、瑠璃も尾びれをだらりとさせて、元気がなくなる。
 言葉はいらない。
 見つめあうだけで、お互いの心がつながっていく。
 ずっと探し求めていたものを、やっと見つけた気がした。
 ぼくは、片時も離れず、瑠璃のそばにいたいと思うようになった。
 もう、何もいらない。
 瑠璃がそばにいてくれれば、それだけでいい。
 瑠璃には、ぼくの心が見えている。
「おいで、おいで」
 と、瑠璃の尾びれが、ぼくを誘っていた。
「そっちへ行けないよ。ぼくは、人間だもの」
 それでも瑠璃は、美しく尾びれを揺らし続けた。
「おいで、おいで、ねぇ、こっちにおいでよ」と。
「だめなんだよ。行きたくても、そっちへ行けないんだよ。瑠璃」
 もどかしさで、ぼくが頭を抱えた時、あのおばあさんの声がよみがえってきた。
 ――これ、きっといつか、あんたの役にたつよ――
「そうだ! きっと、そういうことだったんだ」
 ぼくは、あわてて、おばあさんからもらった小瓶を取りだすと、ためらうことなく、青いうろこを、いきおいよく飲み込んだ。
 目の前の景色が、ぐらんとゆがんで見える。意識が遠のいていった。
「もうすぐ、もうすぐだね……瑠璃」
 ぼくは、うすれていく意識の中で、瑠璃の名を呼び続けた。

「ねぇ……」
 ソーダの泡がはじけるように、美しい声がシュワワと、はじけた。
 ぼくの身体は、心地よい泡の中をただよっている。
 静かに目を開けると、美しい少女が、ぼくに微笑みかけた。
 瑠璃だ。
 瑠璃がぼくの手の届くところにいる。
 もうガラスの壁はなくなったのだ。
「行きましょう。私たちの世界へ」
 瑠璃は、ぼくの手を取ると、上へ、上へと泳ぎだした。
 明るい光が、ぼくたちを照らす。
 天から、聞き覚えのあるかわいた声が、聞こえてきた。
「やっぱり……ひとりぼっちでは、生きてはいけないものねぇ」
 上を見上げると、水面に、ゆらゆらと美しい鳥の姿が見えた。
「ああ、そうか……」
 ぼくは、やっと思いだした。ストールのあのやわらかな薄紅色を、どこで見たのか。
 あれは朱鷺色。
 テレビ画面に映しだされた、美しい鳥の羽の色だ。
 朱鷺は、大きく翼をひろげると、空に向かってはばたいた。
 さえぎるものは、もう何もない。
 ぼくは、小さくなっていく朱鷺の影を、瑠璃といつまでも見送った。
「さぁ、行きましょう」
 瑠璃の言葉に、大きくうなずく。
 ぼくは、ようやくほんとうの居場所をみつけた。
 果てしなく続く淡い水色の世界を、ぼくは瑠璃と、いつまでも、どこまでも泳ぎ続けた。





| back | close |