午後のベンチで
ぼくには、お気に入りの場所がある。それは、公園の古びた青いベンチ。
ところどころ、ペンキがはげ、木の肌がむき出しになっていて、くたびれてはいるが、作りがいいのだろう。座っても、きしんだりすることはなく、安心して身を任せられる。海の色を思わせる青いベンチは、古びていてもどこか風格があった。
それに、冬は凍えそうに寒い日でも、日だまりのようにあたたかく、夏は何もかも溶けそうなくらいに、ギラギラと日が照りつけていても、潮の香りをのせたさわやかな風が吹く。そんなベンチなのだ。
人に話しても、気のせいだろうと笑われてしまうのだけど、ネコや鳥たちには、わかるらしい。ベンチには、必ず小さなお客さんがいた。
ぼくは時間があると、決まってこのベンチにやってくる。
今日もベンチには、先客がいた。真っ黒なネコが、気持ちよさそうに大きく体をのばし、ねむっている。
(少し場所をあけてくれないかなぁ……)
と、思っていると、ネコは、ぴくっぴくっと耳を動かし顔をあげ、金貨のような目をぼくに向けた。
「となりに座ってもいいですか?」
ネコは「どうぞ」とでも言うように、のそのそと身体を丸める。
「ありがとう」
ぼくは、ネコのとなりに座ると、大きく伸びをした。どこからともなく、金木犀の甘い香りがただよってくる。まだ少し夏の暑さを残した日ざしが心地いい。のどかな午後だ。
「あー、やっぱりいいなー。ここは」
ネコもぼくの意見に賛成なのか、となりでしっぽをゆらした。
「それは、どうもありがとう」
ふいに、ぼくの背後で声がした。おだやかでやさしい響き。
「あ、ああ、おどろいた。ベンチがしゃべったのかと……」
いつのまに現れたのか、ぼくの後ろにおじいさんが立っていた。よく日に焼けた肌は、つややかで、深く刻まれた年輪のようなしわがなければ、おじいさんだとは思わないだろう。
「となりにすわってもいいですかな?」
おじいさんの声に、ネコは、ひらりとベンチから飛び下りた。
「はい。どうぞ。コイツもあなたに席をゆずるようですから」
ぼくは、ネコを抱きあげた。
「ありがとう。この子の名前は、ノワールっていうんだよ」
おじいさんは、ぼくのひざの上にすわっているネコののどをなでながら言った。
「へぇ、あなたが飼ってるんですか?」
「いや、この子はノラだよ。甘えん坊でかわいい子なんだけどねぇ」
ぼくは、このおじいさんを昔から知っているような気がする。けど、どうしても思い出せない。
「今日は、きみに会いたかったんだ」
おじいさんはそう言ったけど、やっぱりわからない。
「あの……どこかでお会いしましたか? すみません、どうしても思い出せなくって」
正直にたずねてみた。
「ハハハハハ。わしは、きみのことを、よぉく知っている。けど、きみは、わしのことはわからなくて当然だ」
いったいどう言う意味だろうか。わけがわからない。けど、おじいさんには、なつかしいような匂いと心地よさがある。
「え? でも、どこかで会ったことがあると思うんです。どこだろう」
おじいさんは、うれしそうに目尻をさげた。
「わしは、きみのことが大好きだった。だから、最後にどうしてもさよならが言いたかったんだよ」
おじいさんのやさしくて深い緑色の瞳は、遠い空を見上げていた。
「さよならって?」
「明日、生まれた国に帰ろうと思ってな。遠い遠い南の島なんだ。いつもあたたかな日ざしがいっぱいで、海からは、さわやかな風が吹く。素晴らしい島なんだ」
なるほどと思った。おじいさんのつややかな日に焼けた肌も深い緑の瞳も、どこかぼくが知っている老人とは、違っていたのだ。遠い遠い南の島の人。そう言われれば、なんだか納得できる気がした。
「そうですか。やはり、生まれ故郷は、いいものですからね」
おじいさんは、やさしくほほえんで、うなずいた。
「あ、そろそろ、ぼく、帰ります」
ぼくは、ねむっているノワールを、そっとひざからおろすと立ち上がった。
「また、いつかお会いできるといいですね。元気でいてください。さようなら!」
「ああ、きみも元気でな。さようなら」
おじいさんは、いつまでもぼくに手を振っていた。
次の日、公園の入り口には、ロープがかけられ、工事中と書かれた看板が立てられていた。
ぼくは、目をうたがった。
「ベンチが……ない……」
すずかけの木の下で、どしりと存在感のあった青いベンチが、跡形もなく消えていたのだ。
ぼう然と立ちつくしていると、
「こらこら! あぶないから、入らんでくれよ!」
作業着を着た人が、少しきびしい口調で声をかけてきた。
「あ、あのぅ、あそこの青いベンチは、どこにいったんですか?」
ぼくは聞かずにはいられなかった。
「青いベンチ? さぁ、今朝来た時には、もうなかったよ」
「え?」
ふと昨日のおじいさんの顔がよみがえってくる。
「ああ、そうか、そうだったんだ。なるほどね。どうりで、会ったことがあると思ったんだ」
くつくつと笑いがこみ上げてきた。ベンチは、生まれ故郷に帰ったのだ。遠い遠い南の島に。
昨日、おじいさんがながめていたように、澄みきった空を見上げた。
「長い間、お疲れさまでした」
ぼくの声は、青いベンチのある南の島まで、届くだろうか。
「ニャー」
ノワールだ。
「そっか、おまえも、お気に入りの場所をなくしちゃったんだもんな」
ぼくは、ノワールを抱き上げ、聞いてみた。
「ねぇ、ぼくのところにくる?」
「ニャー」
ノワールは、目を細めて小さく鳴いた。
「よし! 決まりだな」
ぼくとノワールは、やさしい金木犀の香りに包まれて、公園をあとにした。
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