夜空色のハンカチ


 ある日、ぼくは、一冊の古い本をみつけた。
 どうやら、お母さんが、子供のころに、読んでいたようだ。
 表紙をめくると、お母さんの名前が、へたな字で書かれていた。
 何度も何度も読んだのだろう、本は、いいぐあいに、手になじみ、ハラハラと心地よ く、ページがめくれていく。
 ぼくは、お母さんのお気に入りが、気になった。
 最初のページを開くと、ぼくの目は、並んでいる文字に夢中になっていった。
 そして、あるひとつの場面に、ぼくの心は、うばわれた。
 青い指の窓。子キツネが、お母さんにあうために作った青い指の窓。
 なんてロマンチックなシーンだろう。


 ぼくは、この本を読んでから、どうしても、青く染めた指の窓を、のぞいてみたく なった。
 物語の中で、指を青く染めるのは、ききょうの花だった。
「これでもいいかなぁ。」
 ぼくは、青いききょう色のサインペンを取り出した。
「なんだか、ムードが出ないな。」
 そうつぶやきながらも、両方のひとさし指と、おや指を、青くぬってみた。
 それから、本にあったように、ひとさし指とおや指で、ひし形の窓を作った。
 青い窓を、目の前にもってきた時、ぼくの心は、はげしく高鳴った。
「何が見えるのだろう。」
 ぼくは、物語のように、ひとりぼっちでは、なかった。
 青い窓の中に、いったいなにが見えるのだろう。
 トクトクと、はげしい鼓動が指先にまで伝わってくる。
 ドンドンと青い窓がひびいたかと思うと、本にあった絵とそっくりの、ききょうの花畑と、一軒の染めもの屋があらわれた。
 店の前には、子供に化けた子キツネではなく、おじいさんがいて、おいでおいでと、ぼくを手まねきしている。
 ぼくには、窓の中に入る術がわからず、ただ、その風景をながめることしかできなかった。
 おいでおいで。
 おじいさんのてまねきを見ているうちに、頭がぼんやりとしてきた。
「いらっしゃいませ」
 ぼくは、いつの間にかききょう畑の中に立っていた。
 おじいさんの優しい穏やかな笑顔。
「あのう・・・」
 なにがなんだかわからなくて、困っていると、おじいさんは、笑顔をさらにくしゃくしゃにした。
「いやぁ、あのお話から、ずいぶんと時が経ちましてな、わしは、このとおり年をとって、気がついたら、天国ですよ。ずいぶんと長い事、染めもの屋のこともすっかり忘れちょりまして。んでも、思い出してもらって、なんだかうれしゅうなってなぁ。」
 ぼくは、おどろいた。
「今、天国にいるの?」
 おじいさんは、クククと笑った。
「大丈夫、ちゃんと帰れるから。それより、記念に何か染めさせてくれんかな。」
 ぼくは、うれしくなって、持っていた白いハンカチを、ポケットから取り出した。
「これを。このハンカチを、染めてください。」
 おじいさんは、とてもうれしそうに、ハンカチを受け取ると、ききょうの花のしるに、そっと、ハンカチをつけた。
 ききょうの花のしるにつかった、ハンカチは、じわじわとききょうの色を吸い込んでいく。
 おじいさんは、何回も何回も、くり返し、ハンカチにききょうの色をしみ込ませていった。
 5回、ききょうの花のしるをくぐったハンカチは、淡い青紫色をしていた。
「うわーっ! とってもきれいだね。」
 おじいさんは、にこりとほほ笑むと、また同じことをくり返した。
 もう何回、ハンカチは、ききょうのしるをくぐっただろうか。
 そろりそろりと持ち上げられたハンカチは、深い夜空の色に染め上がっていた。
「さぁ、できあがりだよ。」
 おじいさんは、そういうと、ハンカチに、アイロンをかけて、ていねいに乾かしてくれた。
「このハンカチを、星のきれいな夜に、ひろげてごらん。そりゃもう、とびっきりな事がおこるから。」
「ありがとう!」
 ぼくが、ハンカチを受け取ると、とつぜん、目の前の景色は、青い指で作られた窓にかわってしまった。
「おじいさん。」
 ぼくは、おじいさんにさよならがいいたくて、そのまま青い窓の中をながめていた。
 何度、ながめても、窓の中には、すみきった空が、うつしだされるだけだった。
 おかしいなぁ、と思って、ポケットのハンカチを取り出してみると、白いハンカチは、見事な夜空色のハンカチに、かわっている。
「これはいいや。まるで、夜空を切り取ったみたいだ。」
 じっとながめていると、ハンカチは、空に戻ってしまうのではないかと怖くなった。
「これはぼくのものだからね。」
 誰かいるわけでもないのに、そう言わずにはいられない。
 机の引き出しをあけると、ぼくのお気に入り達が、顔をのぞかせた。
「また一つ増えたな。」
 ハンカチを奥にしまうと、引き出しを閉じた。

☆☆


 あれから、ぼくは、何度もサインペンの青い窓を作った。
 けれど、何度、青い窓をのぞいても、もう二度と、あのききょうの花畑も、染めもの屋も、おじいさんも、姿を見せてはくれなかった。
 一年過ぎ、二年過ぎ、ぼくは、少しずつ、ききょう畑が遠くなっていくのを感じた。
 月日は、流れ、ぼくは、大人になってしまったのだ。
 夜空色のハンカチは、淡い思い出と共に、引き出しの中に、しまい込んだまま。
 大人のぼくの毎日は、忙しかった。
 机の引き出しをあけて、お気に入り達をながめることも、なくなっていたのだ。
「たまには、休みをとって、旅にでも出ようかな・・・」
 仕事のスケジュールを書き込もうと、何気なく手にしたサインペン。
「ああ、この色は・・・。」
 青いききょう色のサインペン。
 ぼくの心は、コトコトと踊りだした。
 もう止められない。
「旅に出よう! 今すぐ!」
 机の引き出しは、キシキシと音をたてた。
 お気に入り達は、相変わらず、きれいに並んでいる。
 ぼくは、夜空色のハンカチをポケットにほりこむと、そのまま、駅に向かった。
 ホームには、最終列車。
 ぼくは、何のためらいもなく、列車に飛び乗った。
「どこに行こうか・・・」
 ぼくは、すっかり少年に戻っていた。窓の外を流れていく景色が、楽しくって仕方ない。
 一つ駅をこえるごとに、街の明かりが、消えていった。
 かわりに、空には、一つ、また一つと、星の明かりが、灯っていくのがわかった。
「ききょうが丘〜」
 終着駅の名前が告げられると、列車は、スピードを落としていった。
 駅には、今どき珍しい裸電球がぽつんと灯っている。
 愛想のいい駅員さんの顔は、どこかしら、あのキツネのおじいさんの面影があった。
「あのう、このへんで、今日の宿はありますかねえ。」
「ちょうどいいところがありますよ。ご案内します。」
 駅員さんは、いやな顔一つせず、宿に電話してくれた。
 しばらくすると、宿の主人が迎えにきてくれた。
 駅員さんは、ぼくが乗った車が見えなくなるまで、手をふっていた。
「うちは、何もお構いもできませんが、景色は格別です。天窓のあるお部屋をご案内しますから、今日は、思い存分夜空を楽しんで下さいませ。」
「天窓ですか! そいつはいいや。」
「気をつけないと、星が落ちてきますよ。」
 主人は、クククと楽しそうに笑った。
 ぼくは、こんないい宿を紹介してくれた駅員さんに、感謝せずにはいられなかった。
「こちらです。」
 案内された部屋を見て、ぼくののどは、こくりと音をたてた。
「これは、すごいや。本当に星がふってきそうですね。」
「ええ。では、ごゆっくり。」
 主人のスリッパの音が、パタパタと廊下にひびいた。
 やがて、部屋の中は、シンとしずまりかえり、星の瞬く音が聞こえてくるようだ。
 ぼくは、ポケットから、ハンカチを取り出し、パンパンとしわをのばした。
 天窓の下に広げてみる。
「さぁ、なにがおこるんだろう。」
 トットットットット。
 青い窓を始めてのぞいた時と同じ。
 ドクン、と心臓がはげしく鼓動をうった。
 ヒュン。
 何かが、ハンカチめがけて落ちてきた。
「これは!」
 落ちてきたのは、流れ星。
 次々と流れ星が、ハンカチめがけて流れてきた。
 小さなハンカチの上は、あっという間に、流れ星でいっぱいになった。
 天窓をそのまま、写し取ったようなハンカチ。
「ああ、なんて素敵なハンカチだろう。」
 こんなに美しい星空をひとりじめしているのだと思うと、嬉しくて、眠れない。
「これは、ぼくのハンカチだよな。」
 そっとポケットにしまったり、出してみたり、落ち着かなかった。

☆☆☆


 「おはようございます。」
 主人の声で目が覚めた。
 いつの間に眠っていたのだろうか。
 ぼくは、思わずポケットに手を突っ込んで、ハンカチの感触を確かめた。
「朝御飯をどうぞ。」
 テーブルには、なめたけの味噌汁と、イワナの塩焼き。
「ああ、うまい。」
 こんなに御飯が美味しいのは、ひさしぶりだった。
「そうだ、この近くに、きれいな川はないですか?」
「あまの川がすぐそばに流れています。これをどうぞ。」
 ぼくの質問をわかっていたかのように、主人は、手書きの地図を渡してくれた。
 部屋に戻ると、ポケットから、ハンカチを取り出した。
 そっと広げると、キラキラと星があふれている。
 天窓には、青い空。
 ぼくは、一日中、天窓の景色とハンカチの上の夜空を楽しんだ。
 流れる雲。瞬く星。
 天窓に一番星が見えた時、ぼくは、宿の主人に別れを告げた。
 地図を頼りに、あまの川に向かうと、空は、ちょうどいい具合に、夜空にかわってい た。
 さらさらと川の流れる音が聞こえてくる。
 澄んだ川面には、お月さんやたくさんの星が、ゆらゆらと揺れていた。
「これは、まるで、空にある天の川と同じだね。」
 ぼくは、早速、ハンカチを取り出すと、そっと川の中に浮かべてみた。
 さらさらと、川の流れにハンカチはゆらめいている。
 しばらくすると、星達は、するり、するりとハンカチから飛び出し、さらさらと、流れるように泳いでいった。
 空を見上げると、もどっていく星達が、見える。
「さようなら。」
 星達に別れを告げ、ハンカチを引き上げると、ただの真っ白なハンカチにもどってい た。
 川面には、にっこりとほほ笑むおじいさんの顔が、うかんで、さらさらと流れていった。





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