さくらの花
あたたかな春の日でした。
町中が、あわいピンクのヴェールを一枚かけたように、さくらの花の色につつまれています。
はるみは、おかあさんと、近くの公園へ行きました。
公園のはじっこに、大きな大きなさくらの木と空色のベンチがあるのです。
はるみは、ここがとても気に入っていました。
おかあさんは、ベンチにこしをおろし、
「こんなにきれいなさくらの花、家にもあるといいわねぇ。」
うっとりと言います。
「うん」
はるみも、自分の家に、さくらの花があると、どんなにすてきだろうと思いました。
「そうだ、はるみ、さくらの花、もって帰ろうか?」
「うん、もって帰ろう!」
「一本くらい、いいわよね」
おかあさんは、そう言うと、目の前のさくらの枝を、パキッと折りました。
こうして、はるみの家のげんかんに、さくらの花が、かざられました。
すきとおる水色のガラスのいちりんざしに、いれられて。
さくらの花は、ぼうっと、白くかがやいて、まるで生きているようでした。
「やっぱり、きれいだねぇ」
おかあさんが、言いました。
けれど、はるみには、うつむいた花が、さびしそうに見えたのでした。
次の日、
「はるちゃん、公園に行こう」
友達のなっちゃんが、きました。
「うん、これ、買ってもらったの。やってみよう」
はるみが、買ってもらったばかりのバトミントンセットをもって、げんかんへ行くと、
「つれて行って」
と声がしたような気がしたのです。
げんかんにいるのは、なっちゃんだけ。でも、今の声は、なっちゃんの声ではありませんでした。
(まさか、さくらの花?)
はるみは、じっとさくらを見ましたが、さくらは、何も言いません。ただ、さびしそうに、花をうつむかせていました。
(気のせい…? だよね)
はるみは、そのまま、なっちゃんと、公園へと向かいました。
「あそこでやろうよ」
公園につくと、なっちゃんが、さくらの木の前を指さしました。
「うん。そうしよう!」
「さーて、いくぞ!」
はるみのラケットが、羽をたたいた時でした。
とつぜん、はるみのまわりに、強い風がおこりました。
「あっ!」
羽は、風にとばされて、さくらの木のてっぺんです。
「あんなに上じゃあ、取れないよ」
なっちゃんは、もうすっかり、あきらめていました。
「うん。でも、羽は、あれだけしかないし……」
はるみは、がっかりしました。買ってもらったばかりのバトミントンなのに、たった一度だけで、おしまいです。
「ねぇ、ねぇ、あっちに行こうよ!」
なっちゃんに言われて、ラケットをベンチにおいたまま、そこをはなれました。
さいしょは、しょげていたはるみも、ブランコやジャングルジムであそんでいるうちに、すっかりとバトミントンのことは、忘れていたのです。
日も暮れはじめ、なっちゃんが、帰ろうと言い出しました。
「あっ! 私のラケット!」
はるみは、ようやくベンチにおいてきたラケットのことを思い出したのです。
「とってくるから、先に帰ってて」
なっちゃんにそう言うと、ベンチに向かって、かけていきました。
ところが、ベンチの上には、ラケットはありません。
「ない、ない、ない! ラケットがない!」
はるみが、ベンチのまわりをさがしていると、
「ねぇ、あなたがさがしているのは、これ?」
うしろで、声がしたのです。
ふりむくと、ピンクのワンピースを着た女の子が立っていました。
「これでしょ?」
女の子は、はるみのラケットをもっています。
「そうよ。かえして!」
はるみが手を出すと、
「私とバトミントンしない?」
女の子が、言います。
「で、でも、もう、家に帰らないと……それに、羽もないし……」
はるみは、女の子にじっと見つめられて、ドキドキしました。
「羽なら、あるわ。少しだけ。ねぇ、いいでしょ? もっとバトミントンがしたかったんでしょ?」
女の子は、大きな黒いひとみで、はるみをみつめます。
はるみは、この女の子と、どこかであったことが、あるような気がしたのです。
ピンクのワンピースも、どこかで見たことがあるような気がしました。
そして「う、うん」思わず、そう言ってしまったのです。
女の子の長い髪とピンクのリボンが、さらさらと風にゆれました。
「こっちよ」
女の子の白い手が、はるみの手をとると、からだが、ふうわりと軽くなった気がしました。
二人は、上へ、上へとのぼっていきます。
もう、はるみには、さくらの花と女の子しか見えませんでした。
「ほら、ここでやりましょうよ」
女の子が言いました。
なにもかもが、やわらかなさくら色です。はるみは、とてもいい気持ちに、なってきました。
「私、れんしゅうしたのよ」
女の子は、そう言うと、パコーンと羽を、はるみに向けて打ちました。
パコーン、パコーン……
バトミントンの羽は、はるみと女の子のラケットを行ったり来たりしています。女の子は、ほんとうにじょうずに羽を打つのです。
「楽しいね!」
はるみは、楽しくてしかたありません。
「楽しいわね!」
女の子が、うれしそうにほほえみました。
「うん」
ラケットで、羽を打つたびに、はるみの心からは、なっちゃんのことも、大好きなおかあさんのことも、消えていきました。
「はるみ! はるみ!」
おかあさんは、公園中をさがしました。
とっぷりと日が暮れたのに、はるみは、家に帰ってこないのです。
いっしょにいるはずのなっちゃんは、とっくに家に帰っていました。
「ああ、いったいどこへいってしまったんだろう」
おかあさんは、生きた心地がしません。
「はるみー! おねがいだから、返事して!」
おかあさんが、ちょうど、さくらの木のあたりに来た時でした。
きゃっきゃっと笑う子どもの声が聞こえてきました。
「はるみ?」
たしかに、聞こえてきたのです。けれど、どこにも子どもの姿は、ありません。
「はるみー! どこにいるの?」
また、楽しそうに笑う声と、話し声が聞こえてきました。その声は、はるみの声です。
「はるみ! はるみ! おかあさんよ! 返事してちょうだい」
おかあさんは、必死でさけびましたが、聞こえてくるのは、笑い声ばかり。
声は、さくらの木のてっぺんから聞こえてきました。
「はるみ!」
おかあさんが、さくらの木を見上げると、笑い声にまじって、小さな声が聞こえました。
「………て」
「……して」
「かえして」
「かえして! かえして!」
声は、どんどんひろがっていきます。
「かえして! かえして! かえして!」
その声は、さくらの花から聞こえているのです。
「かえして!」
さくらの花は、じっとおかあさんを見下ろしています。
「ああ、そうだわ、昨日のさくらの枝……ごめんなさい」
おかあさんは、あわてて家にもどると、げんかんのさくらの枝をもって、おおいそぎで、公園に向かいました。
「早くしなきゃ。早く」
おかあさんは、夢中で走りました。
公園までの道のりが、こんなにとおく感じられたのは、はじめてでした。
「早く、早く!」
おかあさんは、もう息もできないほど、いっしょうけんめいに走って、公園につくと、さくらの木の前に、もってきた枝をおきました。
「これはかえすから、早くはるみをかえして!」
ザザザザザッ。
とつぜん、はげしい風が、ふきました。
たくさんのさくらの花びらが、まい上げられ、あたりは、すっぽりとピンクのカーテンに囲まれたようになりました。
そして、しだいに風がしずかになり、はらはらと花びらが落ちていきました。
さくらの枝は、いつの間にか、元の場所にぴったりと、くっついています。
落ちていく花びらの中に、ちらちらと、人の影が見えました。はるみです。はるみが、空色のベンチにちょこんとすわっていたのです。
「はるみ! はるみ!」
おかあさんは、はるみをしっかりとだきしめました。
はるみは、くすっと笑うと
「おかあさん、ただいま!」
と言いました。
「まぁ、はるみったら、一体どこにいたの! おかあさん心配で心配で…」
おかあさんの目からは、涙があふれています。
「わからない。でもね、あれは、きっとさくらの国だよ。あたり一面、ずっとずっとさくら色で、さくらの花の上を歩いてた。ふわふわして、すごく気持ちがよくって、ああ、もうこのまま、ここにいようかなって思ったの」
はるみは、ちらりとおかあさんの顔をのぞきこみ、にこっと笑いました。
「でもね、遠くで、おかあさんの声が聞こえた。そしたら、帰らなきゃ! って思って、夢中で、声のする方に向かって走ったの。ひっしで走ってたら、きゅうにさくらの花びらが、ばぁーってなって、気がついたら、ベンチに座ってた」
おかあさんは「よかった、よかった」となんどもなんども、はるみをだきしめて、ぽろぽろ泣きました。
「あっ、そうだ、これ、もらったの。友達のしるしだって」
はるみは、ポケットから、リボンをとりだしました。
「あら、きれいなリボン。さくらの花と同じ色ね」
おかあさんは、そういうと、はるみの髪にきゅっとリボンを結んでくれました。
「さぁ、かえりましょう」
「うん」
はるみが、おかあさんの手をとって、ふとふりかえると、月明かりにてらされたさくらが、キラキラとかがやいていました。
「おかあさん、やっぱり、さくらは、外で見る方が、きれいだね」
「そうね。家にかざるものじゃないわね」
おかあさんは、そっと、さくらの木にお礼を言いました。
「はるみをかえしてくれて、ありがとう」
やさしい風が、さくらの花をゆらします。
「ありがとう。ありがとう。かえしてくれて、ありがとう」
小さなさくらの声が、聞こえた気がしました。
「きっと、またあえるよね」
はるみのことばに、さくら色のリボンが、
「来年、また来年」
そう言って、ゆれていました。
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