雪の心


「今日も暑いわね」
 雪子が言った。
 ぼくは、こたつにもぐり込み、白い息をほぉっと吐き出した。
「……ぼくは、寒くて凍えそうだよ」
 今は一月。窓の日除けには、小さなつららができている。
 でも雪子には、暑いらしい。
「だって、雪が降らないんだもん。だから暑いのよ」
 雪子は、ふわふわと笑う。
 ぼくは雪子のために、こたつ以外の暖房機具を使わないようにしていた。
 部屋があたたかくなると、雪子がいなくなってしまうような気がしたから。

 雪子と出会ったのは、クリスマスの日だった。
 仕事の帰り道、星やトナカイ、サンタクロースに形作られた小さな光の塊が、孤独なぼくの影をくっきりと映し出していた。家の中から幸せな家族の笑い声が、聞こえてくる。時々、小さな雪のかけらが、はらはらと落ちてきた。
 雪は嫌いだ。
 まつげに雪が落ちてくる。たまらなく憂鬱になって、
「はぁ、やになっちまうな」
と、ため息をもらした時、ぼくの目に少女の姿が映った。
 少女は、電信柱にもたれて、落ちてくる雪を静かに眺めている。
 うす暗い夜の道で、銀色の髪が月明かりを浴び、シャラシャラと輝かく。白いワンピースに身を包んだ彼女は、光を放っているかのように見えた。
 少女は、じっとぼくを見つめると、
「あたし雪子。迷子になっちゃったみたい」
 そう言って、フフフと笑った。
 それが、雪子との出会いだった。
 大きな黒い瞳。ぬけるように白い肌が、まぶしすぎて、ぼくは、どうしていいのかわからず、とっさに自分のマフラーを、雪子の細い首にかけた。
「いつまでも、こんなとこにいると、風邪ひくよ」
 そうしてぼくは、冷静を装って家に向かって歩き出した。
 タッ、タッ、タッ。
 ぼくの後ろに、雪子の足音が続く。
 ぼくが立ち止まると、雪子の足音も止まった。
「どうして、ついてくるの?」
 不思議に思ったぼくが、ふりかえると、
「あなた、雪の匂いがするから」
 と、雪子が笑った。
 ドキリとした。
 ぼくは、この街来るまで、雪国にいた。
 雪しかない町に嫌気がさして、故郷をとびだしたんだ。
 冷たくて、重苦しい雪が、大嫌いだった。
 母親がぼくに別れを告げて出て行った時も、うんざりするくらい真っ白な雪が、あたりを覆いつくしていた。
 雪は、孤独なぼくをおしつぶすように静かに降り積もり、やがて心の芯まで冷たさがしみてくる。たまらなかった。
「……でも、ぼくは、君の帰る場所を知らないよ」
 雪子は、こくんとうなずくと、またじっとぼくの目をみつめた。
「あたし、帰るところがないんだわ」
 黒い瞳が、じんわりと潤む。
「君さえよければ、ぼくのところに来る?」
 ぼくは、思わず言ってしまった。
「ええ、ありがとう」
 氷のように冷えきった雪子の手が、ぼくの手に触れる。
 ひんやりとした感触が、なぜか心地よかった。

 雪を待ち焦がれる雪子。
 雪子が来てから、ぼくの部屋の温度は、どんどん下がっていった。
 もう、外にいるのか、家の中にいるのかもわからないくらいに。
 でも、雪子は、ぼくの心に、ぬくもりをくれた。なつかしいぬくもり。忘れかけていた何かが、ぼくの心を熱くする。
 雪子が愛おしい。
 雪子を強く抱きしめたい。
 ぼくの想いは、日ごとに強くなる。
 けど、ぼくは、雪子をそっと見つめるだけだった。
 触れると、ぼくの熱さが、雪子を溶かしてしまいそうで怖かった。抱きしめると、壊れてしまいそうで、怖かった。
「ねぇ、明日は降るかしら? 雪」
 雪子は、窓を大きくあけると、空を眺める。
 つんと冷たい空気の中で、輝きを増す雪子を見ていると、ぼくの心の中まで、清らかになっていくように思えた。
「雪子、どこにも行かないでくれよ」
 ぼくは、つい本音を漏らしてしまった。
 雪子は、せつない目で、ぼくを見つめるだけで、何も言わなかった。

 春が、じわじわと押し寄せてくる。
 気のせいか、雪子の肌が、少し透けて見えた。
 ぼくは、焦った。
 このまま春が来ると、雪子が消えてしまうんじゃないかと。
「ねぇ、もっと、部屋の温度を下げた方がいい?」
 ぼくが必死で聞いても、雪子は、ただ静かに笑っているだけだった。
「何が欲しい? 何がしてほしい? なんでもしてやるから」
 雪子は、しばらく黙っていた。そして小さな声でぽつりと言った。
「雪……」
 ぼくは、飛行機のチケットをとった。

「雪! 雪だわ!」
 雪子の目に、ダイヤモンドのように輝く雪が映る。
 ぼくの故郷。長い間、記憶の奥底に封印してきた雪景色。
 けど、モノトーンの記憶に焼き付いていた重苦しさは、微塵も感じられなかった。
 こんなに神々しい雪を、はじめて見た気がする。幼いころから、嫌になるくらい見てきた雪なのに。ぼくは、目を向けようとしなかったんだ。
 雪なんて、ただ、寒くて、冷たいだけだと思っていた。でも今は、あたたかくぼくを包みこむ。
 それは、雪子と同じあたたかさだった。
「ねぇ、きっと、また会えるわよね?」
 雪子の言葉に、はっとする。
 金色に輝く太陽の光が、ちりちりと雪を溶かしていた。
「またって、ずっと一緒にいてくれるんじゃないのか? 行かないでくれ! どこにも行かないでくれよ! 君が望むなら、どこへだって行く。だから、ぼくを一人にしないでくれよ」
 ぼくは、無我夢中で雪子を抱きしめた。
「もう、離したくないんだ」
 ぼくの熱い想いが溢れだし、雪子をじりりと溶かす。
「雪子!」
 ぼくは、あわてて、雪子から離れようとした。けど、雪子の細い腕が、しっかりとぼくを抱きしめていた。
「ありがとう。また会えるわ」
 ぼくの腕の中で、雪子は霧のように消えていった。
「雪子……」
 ぼくは幻を見ていたのだろうか。
 ──シャラン──
 何かが、腕からすべり落ちた。
 それは、ガラスのように透きとおるハートの形の氷。そっと拾い上げると、冷たいのに、ほのかにあたたかかった。
「雪って……あったかかったんだな」
 まぶしすぎる太陽を見上げる。
 ふわふわと雪子の笑い声が、降ってくるような気がした。





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