ゆめの湯
その日は、街に、春一番がふきました。
ほんのりと春の甘い花のにおいをのせて、ビューッと、通りすぎていったのです。
そんな小さな春のおとずれを、星野さんは、気づかずにいました。まゆとまゆの間に大きなしわをつくると、けわしい顔で、車に乗りこみます。
「やれやれ、つかれたなぁ」
星野さんは、エンジンをかけると、ゆっくりと車を走らせました。
空は、暗いあい色にかわりはじめ、夕日が、雲をうっすらと、赤く染めています。
やっと、仕事が終わって、家に帰れるというのに、星野さんの心は、どんどんと夜の暗やみに吸い込まれていくようでした。
このところ、星野さんは、やけに疲れるのです。
仕事が終わと、なんともやりきれない思いで、でてくるのは、ため息ばかり。
それが、どうしてなのか、星野さんにもわかりませんでした。
なにかが、たりない気がするのです。でも、どうしても、その「なにか」が、わからないのです。
「はぁ……」
大きなため息をもらした時、ちょうど、信号が赤に変わりました。
「今日は、ドライブでもして帰るか」
星野さんは、ウィンカーのスイッチをつけました。カチカチと車の左がわのランプが、点滅しています。
信号が、青に変わると、ハンドルを大きく左にまわしました。
道は、見なれた山へと続いています。
星野さんは、なにか考え事をしたい時には、この山道を通って帰るのでした。
山道を通ると、いつもの道の何倍も時間がかかります。けれど、くねくねと曲がりくねった細い山道は、今は、使う人もほとんどなく、前を走る車も、後を追いかけてくる車もありません。
星野さんは、じっくりと考えたかったのです。たりない「なにか」を。
けれど、仕事のこと、家族のこと、いろんな事が、星野さんの頭の中を通りすぎていきます。考えようとしても、ただ、通りすぎていくのです。まるで、車が、通りすぎていくように。
「だめだ! だめだ! どうせ、考えたって、何も変わりはしないんだ」
星野さんは、考えるのをやめることにして、ただぼんやりと車を走らせました。
車は、どんどんと山を上っていきます。
ずいぶんと、山を上った頃、周りの景色が、白くぼんやりとしてきました。
「おやおや。今日はツイていないなぁ」
あたりには、うっすらと白い霧が、かかっていたのです。
もう、とっくに日も暮れて、暗い暗い夜の山道でした。
「はぁ、困ったもんだ。気をつけて走らないと。それに、なんだかやけに寒いなぁ」
星野さんは、エアコンの温度をあげると、慎重に、車を走らせました。
「ためだ。真冬の寒さみたいだな。エアコンもちっともきかないや。寒い寒い」
寒さで、ハンドルをにぎる手が、ぶるるっとふるえます。
「おっと、あぶない、あぶない!」
星野さんは、気持ちをひきしめて、さらに慎重に、車を走らせました。
山には、道は一本しかなく、走りなれた道でしたが、こう見通しが悪いと、さすがの星野さんも、怖くなってきました。それに、少し、変なのです。
ずいぶん長い時間走っているのに、いつまでたっても、道は、上り続けているのです。
「おかしいなぁ。もうそろそろ、下り道になっても、いいはずなんだけど。」
星野さんは、しばらく首をかしげていましたが、霧で、ゆっくり走っているせいだと思う事にしました。
星野さんをのせた車は、どんどんと上っていきます。
「やっぱり……へんだよなぁ。こんなまっすぐな山道なんて」
上に上れば上るほど、霧もこくなって、とうとう、まったく何も見えなくなってしまいました。もう、目の前の道すら見えません。
「おかしいなぁ。なんだか、山を通りこして、空でも走っているみたいだ」
ふしぎな事に、だんだん、怖いと言う気持ちが、うすれていきました。それどころか、道も見えないのに、もっと、上まで行ってみたくなったのです。
すっぽりと霧につつまれて、見えない道を、星野さんの車は、どんどんと進んでいきます。ひたすら、まっすぐに、車を走らせたのです。
もう、月のそばまで、上ってきたんじゃないかしら? そう思った頃、遠くで、明かりが、灯っているのが見えました。
「なんだろう?」
星野さんは、明かりに向かって、車を走らせます。
ぼんやりとしていた明かりが、しだいに大きくハッキリと見えてきました。
大きなまんまるなランプに照らされて、大きな看板の文字が、浮き上がって見えます。
「ゆめの湯?」
星野さんは、車をとめました。
「何年も、この山道を走っているけど、こんな建物、見た事ないなぁ。いつの間に、温泉なんかできたんだ?」
星野さんは、ふしぎに思って、ぽかんとつっ立っていると、
「いらっしゃいまし」
ランプをそのまま頭にしたような、つるつる頭のおじいさんが、ひょっこり姿をあらわしました。
「あ、あのう、どうやら、道に迷ってしまったみたいで……一本道を迷うなんて……どうにも、おかしいですよねぇ」
星野さんは、頭をかきながら、照れくさそうに、言いました。
おじいさんは、クククと小さく笑うと
「まぁ、こんな霧ですからねぇ。せっかくですから、うちの湯につかっていってくださいよ。ささ、どうぞどうぞ」
そう言って、星野さんに中へ入るように、すすめました。
「えんりょは、いりませんよ。身体も冷えてるみたいだし、うちの湯にゆっくりつかるといい。身体が、ポッポッとあたたまる頃には、霧も晴れるでしょう。ささ、入った入った」
「すみません。なんだか、身体が芯まで冷えてしまって、ちょうど、あったかいお湯にでも、つかりたいと思っていたんですよ。助かります。」
星野さんは、おじいさんにすすめられるがままに、中へと入ると、上着のポケットに手をつっこみました。お金を払わなければと思ったのです。
「おやおや、お代は、いりませんよ。こんな日ですから、せめて身体だけでも、あったまっていってください」
おじいさんは、にっこりとほほえむと、黄色いタオルを一本くれました。
「そうですか? じゃ、お言葉にあまえさせてもらいます」
星野さんは、ほっとしました。ポケットには、100円玉が3枚しかなかったのです。ここまで来て、お湯につかれないとなると、どんなにくやしい思いをしたでしょう。
「では、ごゆっくり」
おじいさんは、そう言うと、脱衣場のとびらをパタリと閉めました。
やけに広い脱衣場には、星野さんの他には、だれもいません。
「ま、こんな霧の日に、わざわざ山の上の温泉に来るお客なんて、いないか。それにしても、親切なご主人だよなぁ。こんな時に、温泉にはいれるなんて、ありがたい」
ぶつぶつとひとりごとを、言いながら、服を脱ぐと、湯舟に向かいました。
ガラガラガラ。
とびらをあけると、一気に湯気につつまれました。
「わぁ! すごい!」
星野さんをつつんでいるのは、もも色の湯気でした。それに、なんとも甘い、いい香りが、鼻をくすぐります。見わたすかぎり、もも色の世界で、湯舟がどこにあるのかも、わかりませんでした。
(いったい、この先に、なにがあるんだろう)
星野さんは、何とも言えないわくわくした気持ちになってきました。こんなに心がときめいたのは、何年ぶりでしょう。
星野さんは、どきどきしながら、前に進みました。一歩進むごとに、心がコトコトとおどるのです。
一歩、二歩、三歩、と足を進めた時、あたたかいお湯が、足先にふれました。
お湯は、しずかに波うって、まるで、海へ入っていくようです。どこか、なつかしい場所へもどっていくような、そんな気がしたのです。
星野さんは、そのままザブザブと、お湯の中に入っていくと、ちょうど背もたれになりそうな大きな岩があったので、そこに、ゆったりと座りこみました。
「ふぅー、これはいい」
お湯は、ちょうどいいあたたかさで、あまりの気持ちよさに、とろとろと、身体がとけていくようです。じわじわと、肌にお湯がしみこんで、身体の芯まで、あたたかくなっていきました。
身体があたたまると、ポッと、心の中に、あたたかな明かりが、灯りました。
明かりは、ろうそくの炎のように、ゆらゆらと、ゆらめいて、すうっと、明かりの中に吸い込まれていくような気がしたのです。
「画家になろう!」
どこからか、そんな声がきこえてきました。それは、昔の星野さんの声。
絵を描くのが大好きで、簡単に画家なれると思っていたのです。けれど、現実は、きびしいものでした。大きな夢をかかえて通った学校には、星野さんよりも、うんとじょうずな人が、わんさかいたのです。才能がないのだと気がついた時、星野さんは、夢を捨ててしまいました。
どんなに夢を見ても、それは、遠い遠い手のとどかないところにあるのです。夢は叶わないものなのだ。叶わない夢なら見ない方がいい。と、いつしか、星野さんは、夢を見ることもやめてしまったのです。
「ぼく、大きくなったら宇宙飛行士になるんだ!」
また、どこからか、声がしました。
それは、子どもの星野さんの声。
「ぼく、パイロットになりたい!」
「いや、お医者さんになろうかな」
次々と、声がします。
(あの頃は、楽しかったなぁ。夢がいっぱいで……)
星野さんは、忘れていた自分の夢を次々と思い出しました。大きな夢も小さな夢も。
「ぼく、仮面ライダーになるんだ!」
小さな小さな子どもの星野さんの声でした。
「ああ…そうか、そうだったんだ」
星野さんは、笑い出しました。
「夢は、見ているのが楽しかったんだ!」
星野さんは、たりない「なにか」がなんだったのか、ようやくわかりました。
夢です。星野さんには、夢がたりなかったのです。
「あきらめなくてもいいんだ! もう一度、夢を見よう」
目の前には、もも色の湯気が、やわらかくゆらいでいます。
「帰ろう」
星野さんは、湯から上がると、さっさと服を着ました。
「湯かげんは、いかがでしたか?」
いつの間にか、おじいさんが、脱衣場のとびらの前に、立っています。
「ああ、とってもいいお湯でした。身体も心も芯からあたたまりました」
「それは、なによりです」
おじいさんは、うれしそうに、笑っていました。
「あのう、帰りの道は……」
星野さんが、不安な顔をしていると、
「心配しなくてもだいじょうぶ。この前の道を、まっすぐ行くと、いつもの一本道に出れますから」
おじいさんは、そう言って、玄関まで、見送りにきてくれました。
「本当に、ありがとうございました」
星野さんは、何度もおじいさんにお礼を言うと、車に乗りこみました。
「いつもの道にもどる頃には、すっかり霧も晴れてますよ。気をつけてお帰りくださいませ」
おじいさんは、星野さんの車に向かって、つるつるの頭を深々と下げています。
星野さんが、車を走らせると、おじいさんの言っていたとおり、すっかりと霧が晴れていました。ふと、バックミラーに目をやると、ゆめの湯のあった場所には、何もありません。
「あれ?」
星野さんは、車を止めて、後ろを見ました。
霧が晴れた空には、ゆめの湯のランプのような、まんまるの月が、あるだけです。
「夢? だったのかなぁ?」
けれど、星野さんのかばんには、ゆめの湯でもらった黄色いタオルが入っていました。
「ふふふ。まぁ、夢でもどっちでもいいか。とにかく、いいお湯だった」
そして、アクセルを踏みました。もういつもの見なれた山道です。
窓をあけると、ふわんと、甘い香りが、車の中に流れこんできました。
「そうかぁ、あのお湯の香りは、この香りだったのか」
春一番が運んできた、小さな春の香りでした。
「明日、スケッチにでも出かけよう。きっと。いい絵が描けるだろうな」
星野さんは、力強く、アクセルをふみました。
やわらかな、月明かりと、春の香りにつつまれて、車はぐんぐんと、山を下っていきました。
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