潮風の吹き抜ける、橋の上に作られた村リシェロに、その日の夕方、一行は到着した。
 マドリルで休むことなく、強行軍でここまで来たせいで、一同の顔には疲労の色が見えていた。
 村に入って、やはり、その雰囲気が、いつもの活気ある港と違っているのは、空気で知れた。
 村人の話を聞いて、情報を集めたところで1日は終りを迎えた。
――わかった事は。
 やはり、大魔王を名乗る何者かが現れて、王女を遺跡に幽閉しているのは、間違いない、ということだった。
 しかし、その大魔王が何者であるのかは、誰も、知らない分からない、と口をそろえて答えるのだった。

――そして、その夜のこと。
 ルカの影の中、深い闇に沈んでいたスタンの意識に、遠くから、それでいてすぐ傍でささやくような、不思議な声が聞こえてきた。
『あなたは、魔王……。魔王の、望みは、なに? ………の、望みは、ひとつだけ…』
 スタンの意識が、わずかに覚醒する。
――…誰だ…?…
 スタンの問いには答えずに、声は、繰り返す。
『あなたは、魔王……。魔王の、望みは、なに?』
――…余の、望み…? …余の、望みは…
『世界を、支配することではないの?』
――…それは…違う…
 スタンは、否定する。
『あなたは、魔王……。
 世界に、恐怖と絶望をもたらす、絶対悪の、存在なのに?』
――…それは、分類が決めた魔王であろう。余ではない…
『あなたは、魔王……。魔王の、望みは、なに?』
――…余の、望みは…
『勇者を、殺すことではないの?』
――………それも……違う…
 やはりスタンは、否定する。
『あなたは、魔王……。そして勇者は、魔王を、あなたを、滅ぼす存在なのに?』
――…………余は……余に、歯向かう者には、容赦は、せん……だが……
『あなたは、魔王……。魔王の、望みは、なに?』
――…余の、望みは…
 何なのだろう、と幾度も反芻される問い掛けを、己の内でも繰り返す。
――…余は、魔王。大魔王。余の、望みは何だ?…
『あなたは、魔王……。魔王の、望みは、なに? ………の、望みは、ひとつだけ……』
 それきり声は、途切れてしまう。
――…余の望みは何だ……? ……お前は、誰だ……望みとは、何なのだ……
 そして、声の気配が遠ざかるのと同時に、スタンの意識もまた、闇の深みへと落ちていった。

―――魔王の、望みは、なに? ………の、望みは、ひとつだけ―――

 その声の問いを、意識の淵に残しながら……。


 日が昇り、ルカを始めとする一行が、村の中央広場に集まり終えた頃、ロザリーが勇者共同組合に、船を借りられるよう話をつけに、1度姿を消した。
 ロザリーが戻ってくるまでの間、それぞれは、広場からそう離れていないところで、思い思いに時間をつぶしていた。
 ルカは、ぼんやりと村の風景を眺めながら、初めてマルレインを見た時の事を思い出していた。
 村長の家の前。初めて彼女を見たのは、そこだった。
 マルレイン王女を一目見て、可愛いとは思ったが、何か、どこか、一つ一つの仕草が嘘臭く、慢じりとした瞳をまっすぐに向けた王女に、ルカは、特に惹かれたわけではなかった。
 むしろその時は……。
 ルカは、視線を巡らし、過去の想いにため息ひとつ吐き、遠くに霞む遺跡を見つめる。
 遺跡でスタンに命じられ、初対面の女の子に抱き付いてしまった責任として、王女の召使いになり、旅に出ることになった。
 その時、母に言われた通り、王女にオルゴールを手渡した。
 そこに、自分の意思は、あったのだろうか?
 いや、あの時の自分は、それまでの16年間と同じで、周りに流されていたにずぎなかったような気がする。
 しかし、オルゴールを手に、微笑む王女の顔を見て、その笑顔の為に、もっと喜んでもらえる何かをしてやりたいと、そう思った瞬間、なにかが変わった。
 確実に、自分は変わった。
 旅路を歩み、傍にいるうちに、なんら普通の女の子と変わらない感情を持って、怒ったり笑ったり、初めて会った時とは別人のように表情豊かに見せる王女を、本当に好きになっている自分に気付いたのは、いつだったか?
――…マルレインは…
 初めて、心から、そんな気持ちを持てた、大切な女の子だった。
 なのに、結局、王女は、自分の手の、届かないところへ行ってしまった。
 だから、本当のマルレインが、自分の元へ、彼女自身の意思できてくれたことを、心から嬉しく思い、また、マルレインに感謝した。
 ルカも、また、マルレインを探しに行こうと、思っていたから。
 ずっと一緒に、あの村で、あの家で、幸せな時を過ごせると思っていた。
――…どうして、こんなことになったのかな?
 心当たりなど無い、分かるはずのないことだというのに、こうして考えてしまう。
 ため息が、漏れる。
 ルカは、我ながらため息が多いな、と思う。
「どうした? さっきから、ぼーっとして、ため息ばかりついて」
 振り返ると、エプロスと、その腕に、ぶら下がる様に引っ付いたリンダがいた。
 言葉無く、ただ、首を左右に振って、ルカは応える。
「ルカ君〜? よく分からないけど、あんまり思い詰めても、しょうがないんじゃない〜?」
 小首を傾げて言う、リンダに、少し微笑んで、今度は縦に首を振る。
 上げた、視線の先に、ロザリーの日傘が、目に入り「…あ…」と声が漏れた。
 気付いて、前の二人も振り返る。
「やっと戻ってきたか」と、エプロスが言い終わらぬうちに、ロザリーの声が届いた。
「ごめんなさい! けっこー手間が掛かっちゃったわ!」
 苦笑いと共に、小走りで仲間の元へとやってきて、なお言葉を続ける。
「……まったく、あの人たち、ニセ大魔王に怖気付いて、情け無いッたらありゃしない…っ!」
 どちらかというと、独り言、しかも愚痴に近いものであったが。
「で? 船はどうだったのかね?」
 手を腰に当て憤慨するロザリーに、キスリングが、その様子お構いなしに尋ねる。
「あ、ええ。許可は、貰えたわ」
 親指と人差し指で、輪っかを作って見せてロザリーは、微笑んだ。
 船の上。
 遺跡に近付いてゆく程に、影の中で、スタンは、何者かのすさまじい圧力と、そして最も馴染みの深いスタン自身の魔力を感じていた。
 魔力を取り戻したい。この先の遺跡に、確かに、自分の魔力が、在る。
 向かいたくない。遺跡に近付くほどに、保つのがやっとの意識が、それ以上に、薄れてゆく。
 スタンの内で、正反対の二つの意思が、せめぎあう。
 しかし、今のスタンには、この事態をどうすることも出来ないのだ。
 じれったく、はがゆく思う。
――なんなのだ、このプレッシャーは……。
 意識が、遠のく。
――………くそっ…
 消えゆく意識の中で、スタンの最後の言葉は、正体見えぬ何者かについた罵りだった。
 そして、また。
 ロザリーも、朧げに見える遠くの遺跡が、徐々に、その形をはっきりと見せてゆく程に、頭の中に霧が掛かるような感覚に襲われていった。
 理由は分からない。ただ、似ている。あの時、分類に縛られていたときの感覚に。
 ロザリーは眉間にシワを寄せて、必死に意識に掛かるモヤを振り払う。
 夢のビジョンが、ちらついて、ルカの影を見、ふと思う。
 理由は、未だ不明だが、ルカとロザリーの見る夢は、またスタンも見ているのだろうか、と、漠然とロザリーは考える。
――大丈夫……。
 ロザリーは、小さくかぶりを、振るう。
 あれは、終わったことなのだ。もしかしたら、ありえたかもしれない、もう一つの結末。
 ただ、それだけだ。
 目の前に、迫った遺跡を、睨みつけ、そう、己に言い聞かす。
 しかし、ロザリーは、見つめる遺跡の入り口が、不敵に、誘いを掛けているような、そんな錯覚を覚えるのだった。

 湿度の高い、遺跡の内部に侵入し、一同は、その奥を目指し進む。
「あ、灯りが…」
 一階分、階段降りて、ルカが小さく、言葉を漏らす。
 壊れた壷の、破片が散らかる、フロアの奥の部屋に、灯された明かりに誘われて、ルカ達は足を向けた。
「……ここ、こんなに、広かったっけ……?」
 以前訪れた時よりも、数倍空間の広がった部屋を見回して、ルカが呟く。
 ロザリーとキスリングも、怪訝に顔を見合わせる。
 狂言染みた、マルレイン王女の誘拐事件の際、乗りこんできたその時は、単なる小部屋に過ぎなかったのに、今では部屋の入り口に灯る明かりのみでは、奥まで照らせないほど、部屋は広くなっていた。
「……どういうことかしら…?」
 誰に尋ねるともつかず、変質した遺跡を見回すロザリー。
 部屋の奥は、暗闇が、ただ広がっている。
 目を凝らしても、視界は、開けはしない。
 灯りが欲しいと、そう思った瞬間に、音なく空間に炎が上がった。
 一同が、驚く中、闇の奥に、人影が浮かぶ。
 その人影は、黒く大きな柱のシルエットの隣に、こちらに背を向けて立っている。
 人影の側にも火が灯る。
 はっきりと見えた人影に、ルカは、はっと息を飲み込んだ。
 その人物は、背はルカよりやや低いくらい、長いストレートの髪に、細い手足を赤いドレスから覗かせた女の子。
 そして、その隣、柱と思ったそれは、背の高い漆黒の玉座。
 また、そこに座る者もいた。まるで玉座に同化するかのような闇色の衣を纏った褐色肌の男。瞼を閉じて深く玉座に腰掛けている。
「マルレイン!?」
「スタン!!」
 ルカとロザリーが、同時に叫ぶ。
 ドレス姿の、少女が振り向く。無表情に、一同を見渡す。
 玉座に座る、本来の姿をしたスタンは、なんの反応もない。
「……マ、マルレイン?」
 ルカは、自信なさげに、少女の名を再度、口にする。
 ルカは、どうして、このようなところにマルレインが居るのだろうかと、考える。
 確かに家を出る時には、自室で眠っていたはずなのに。
 どうしてここに…?
 瞳だけで、マルレインにそう、問いかける。
 しかし、ルカの心の声は、王女の時の姿をしたマルレインに、伝わらない。
 そして、ロザリーは、ルカの影とマルレインの傍らに未だ眼を閉じ座るスタンとを、見比べ影のスタンに呼びかける。
「…スタン?」
 しかし、返事はない。「ちょっと、聞こえないの!?」と、声を荒げるが、やはり影の中から反応はない。
 そこで、初めて、マルレインに変化が見られる。その顔に、微笑を浮かべてロザリーを見る。
「無駄じゃ、勇者ロザリーよ。魔王の意識はもう、その影の中には、おらぬ」
 眉をひそめて、ロザリーがマルレインを見る。
 エプロスが1歩踏み出してマルレインに問う。
「それは一体、何故だ?」
 マルレインは、ただ微笑を続けるのみで、答えない。
 エプロスに答えないマルレインに、リンダがぷぅっと頬を膨らませるが、そんなことに気付かないで、今度はキスリングが、マイペースに独り言を口にする。
「我々は、たしか王女が大魔王に捕らえられていると聞いて来たのだが? どうにも勝手が違うようだね?」
「マルレイン? 本当に、マルレインなの?」
 ルカが、あまりにも様子の違うマルレインに、訴える。
 マルレインが、微笑みを称えたまま、ルカを、見る。
「わらわは、王女マルレインじゃ。わらわは、わらわじゃ。それ以外の何者でもない」
「…そ、そうじゃ、なくて…」
 ルカが、口ごもる。
 ボクが聞きたいのは、君が……。
「本当のマルレインは、ルカ君の家で眠っているって聞いたけど? あなたは、そのマルレインなの?」
 ロザリーが、ルカの代弁をする。
 キッ、とマルレインがロザリーを睨む。
「わらわが、マルレインじゃ! マルレインは、他にはおらぬ!」
 マルレインの、いきなりの豹変ぶりに、ロザリーはたじろぐ。
「ちょっと待ちたまえ。今、『わらわが』と言ったね? ならば君は、あの少女とは別人なのかね?」
 キスリングが、マルレインの微妙な言葉回しに気付いて問い掛ける。
 ふいに、マルレインの表情が、また微笑を取り戻す。
「そうじゃ」
 くくく、と、息を漏らして笑う。
 ルカは、その笑い方が、やけに嫌な物に思えた。
 ルカの知っているマルレインは、そんな笑い方をしたことは、なかった。
「一体、あなた誰なの?」
 本当のマルレインとは、別人であると名乗った王女姿の少女に、ロザリーは斜に構えながら聞く。
「わらわは、マルレインじゃ。王女、マルレインじゃ」
 わずらわしそうに、マルレインはそれだけ答えた。
 なにか、引っかかりながらも、ロザリーはその引っかかりがなんなのか分からずに、怪訝そうな顔をしただけだった。


 そして、その頃、ルカの家。ルカの父親が、息子のいないことをいいことに、魔術モドキでマルレインを目覚めさせようと企てて、地下室に下り、「おや?」と声をあげた。
「ここにおいてあった、あのお人形さんはどうしたのかな?」
 きょろきょろと、狭い室内を見回すが、人形は見当たらない。
「アニーが持ち出したのかな? うんうん、アニーも女の子だからね、お人形さんで遊びたい時もあるだろうね」
 と、独り納得して頷き、父親は、目的の魔術に関する道具を探し始めた。


 ルカは、自分の心臓が、早鐘のように激しく打たれるのを感じた。
『わらわが、マルレインじゃ! マルレインは、他にはおらぬ!』
 そう言った王女マルレインの言葉に、胸騒ぎを覚える。
 嫌な予感が胸に溢れる。
「…君は……もしかして……」
 ふらふらと、数歩、歩み出る。
 マルレインは、他にもいる。2人いるのだ。1人は家に。本物の、眠りに落ちたままの…。
 ならば、この目の前にいるマルレインは…。
「ルカ君、何か心当たりがあるの?」と背後からロザリーの声が聞こえる。
 ある、あります。もう1人のマルレインも、家にいたのだから。
「……君は…あの、人形なの?」
 ルカの問うた言葉に、王女マルレインは、満足そうに、見るものに恐れさえ抱かせるような笑みを浮かべた。
「に、人形!? って、あのベーロンがマルレインの代わりにしてた?」
 後ろで驚きの声をあげるロザリーに答えずに、ルカは王女マルレインを見つめた。
「どうして、君はボクの家の地下室で……」
「ベーロンの娘。あの娘がわらわに触れたとき、わらわは目覚めたのじゃ。そしてわらわが、分類を再び世界に課したのじゃ」
 王女は語る。
「これは驚いた! 君にも分類を振り分ける力があったのかね!?」と、キスリングが大声で問う。
「長いこと、ベーロンの側におったからな。わらわの中に、少しずつ、あやつの力が染み込んでいったようじゃの。目覚めた時に、わかったのじゃ。この力を使うのは、意外と簡単じゃったぞ?」
 王女であり人形であるマルレインは、目を細める。
「どうして、そんなことをしたの!?」
 ロザリーが、怒りを露わにルカと並ぶように、前へ出る。
「それは……」と、マルレインは、眠るかのように目を瞑る、スタンに近寄り、その肩に片手を掛け、続ける。
「わらわと、この魔王のためじゃ」
「…え…?」
 ロザリーが、怪訝な顔をする。
「わらわも、魔王も、分類なき世界では、用はない……。生きる意味がないのじゃ。
 魔王は、何者からも忌み嫌われて、世界をただ滅ぼそうとし……そして勇者に倒され滅ぶ、それがこやつの役割じゃ。
 それだけのために、こやつは生まれてきたのじゃ。
 だが、分類を排除されたせいで、この魔王は、可哀相に、ずっとすべきことが見つからぬ……。
 だから、わらわがここへ、こやつを連れてきた。魔王の務めを、終らせてやるためにの。
 そして、わらわも……王女も、分類が失われた世界には、必要がない。わらわは、そんなのは嫌じゃ。
 わらわは、生きていたい。
 わらわは、生きて……そして……」
 饒舌な王女の視線が、ただ一点、ルカを見つめ、言葉が止まる。
 マルレインの唇が、微かに動き、呟く。ルカの元へは届かない、ごく微弱な、小さな声で。
「……わらわは、わらわの望みを叶えるのじゃ……たった、ひとつの、望みを…」
 マルレインは、しばし押し黙って、そしてその瞳に冷淡な色を宿す。
 マルレインは、傍らのスタンへと向き、その肩にもう片方の手も掛け、ほんの少し踵を浮かせて、耳元へと顔を寄せる。唇がその耳に触れるくらいの距離までに。
 その光景に、目を見張るのは、ルカ。心臓を叩かれたような衝撃があった。他の者も、茫然と、ただ、見つめるだけ。
 そして、ロザリーは、素早く目を背け、日傘の陰に、目を伏せる。見たくないものを見たような、そんな嫌悪感が内を占めた。
――…わかってるわよ!
 胸中で怒鳴る。解っている。ロザリーは自分が、大人気なくも、マルレインに、あの少女の仕草に、嫉妬しているということは。
 マルレインは、スタンに囁く。
「……魔王よ。そちには、しっかりと役目を果たさせてやろう……さあ、目覚めるのじゃ。勇者が、そちを滅ぼしに来たぞ?」
 スタンの瞼が、薄く、開かれる。
 顔を上げて、真っ直ぐに、ロザリーを睨む。
「……余は、大魔王スタンリーハイハットトリニダード14世。……貴様が、余に楯突く大勇者か」
 低く重い声で、そう言う。
「!?」
――…何?!
 ロザリーは、大きな力が、自身を押さえつけるような感覚に囚われる。
 分類の満たされた空間で、大魔王の力に、大勇者の力が反応して、より一層、意識が奪われそうになりながらも、考える。
――楯突く? いや、違う……。
 ロザリーは、勇者だ。大勇者だ。
 しかし、だからといって、スタンを倒しに来たわけではない。倒したいわけ、ない。
 そう言おうとして、ロザリーが口を開きかけると、その前にスタンが言葉を放った。
「貴様の愚かさ、死を以って、その身に思い知らせてやろう…」
 マルレインが、スタンの肩口から離れると、スタンは、ゆらりと立ち上がる。眼は、ロザリーを睨み付けたままで。
「ス、スタン! どうしたの!?」
 ルカが、声をあげる。
「アニキ! しっかりして下さいッス!」慌てて、ビッグブル。
「スタン様ーん! 正気に戻って下さい〜!」リンダが困り顔で、胸の前で拳を作る。
「そうだ。大魔王よ、お前は操られているにすぎんのだぞ?」エプロスが続ける。
 口々に、言葉を投げ掛ける仲間をよそに、キスリングは顎を撫でながら、
「これは、まるであの時の再現のようではないかね? 違うといえば、ロザリー君が正気だということだけれども」
 と、状況の分析をする。それが聞こえて、ロザリーは息を飲む。
「………スタン…」
 このままでは。
 夢が現実になってしまう。
 悲痛な思いで、その名を小さく漏らす。
 しかし、スタンは、何の感情も灯さぬ瞳で、ただ冷たく言い放つ。
「人間の小僧や、魔族でありながら勇者と共に行動する腑抜けの言葉など、聞く耳持たぬ。さあ、勇者よ。かかってくるがよい」
 スタンは、差し出した手の平の上、胸の前に炎を生み出す。邪悪と殺意に満ちた炎を。
 ルカが、振り向く。ロザリーを。目で訴える。
 戦ってはいけない、と。
 ロザリーは、そのルカとスタンとを、交互に見る。
 戦いに応じれば、あの夢が正夢になるやも知れない。
 しかし、戦わなければ、どうなる?
 やはり、待つのは死ではないか?
 いや、と頭を振るう。
 嫌なのは、怖いのは、自分の死ではない。無論、死ぬのは嫌だし、怖い。
 しかし、それ以上に。
 本当に、スタンを殺すことになってしまったら…。
――…いいえ…
 大丈夫。あたしは正気だから。そう自分に言い聞かせる。大丈夫よと。
「あのバカを、正気に戻さないと……」
 ロザリーの言葉に、ルカが「…でも、どうやって…?」と気弱に呟く。
 ロザリーは、腰の愛剣を抜く。
「ロザリーさん!?」
 驚きの目で、ルカが見つめてくる。しかし、その遥か後方で、ロザリーが抜刀したのを、戦闘の意思有りと判断したのか、スタンが炎を灯した手を掲げるのが見える。その手の中で、炎の勢いが明らかに増した。
 はっとして、ルカの腕を掴み引き寄せ、ロザリーがルカをその背に庇い、防御魔法の呪文を唱え始めるのと同時に、空気さえ焼くような轟音を立てて、スタンが火炎を、放ち蒔く。
 唸り迫る豪炎を、すんでのところで出現した魔法障壁が、その行く手を阻む。
 熱までは、完全に防ぎきれずに、肌が熱気に焼かれ、すぐさま微弱な冷気呪文を唱え、冷ましてやる。
 炎が完全に、拡散されると、ロザリーは、仲間を、スタンの攻撃の巻き添えにせぬように、駆け出して、仲間の傍から離れた。
 スタンは、そのロザリーを追うように、炎の渦を放つ。
 当たらぬように、上手く避けながら、ロザリーは、牽制に呪文を唱えレイピアを振るい、その切っ先から冷気を飛ばす。
 以前よりは広いといえども、派手な戦闘には不向きな屋内ということと、走りつづけたところで体力を無駄に消耗するだけと、ロザリーは床を踏みつけるように足を止め、なお向かい来る火炎の束のすべてを魔力の壁で打ち消す。
「スタン! マヌケバカ魔王! あっさり操られたりして、恥ずかしいったらないわね!」
 ロザリーは身構えたままで、大声を張り上げた。なるべくいつものように喧嘩をふっかけるような言い方で。
 しかし、スタンは動じずに、飛び道具は有効な手立てではないと判断し、地を蹴り、駆ける振動の中、視界にロザリーを捕らえたままで、その手に魔力を込めて、容赦無しに爪を閃かせる。
 ロザリーは息を短く吸い、反射的にレイピアで、スタンの手を受けとめると、スタンの魔力が、剣に弾み、火花を散らす。その衝撃を和らげるために、ロザリーは後方へと、跳ぶ。
「スタン! アンタ言ってたでしょう!?」
 ロザリーは後退し防戦に徹しながら、訴える。
 腕を幾度も振り払い、嬲るような攻撃を仕掛けるスタンは、何の言葉も持たずに、ただ、無情に、唇をつり上げて、その隙間から鋭い歯を覗かせている。
 ルカ達も、接近戦へと展開してしまったその場に、援護をすることも出来ず、歯噛みをしながら見守ることしか出来ずにいた。
 ロザリーが、不利な戦いに応じながら、殺気を放つスタンになお叫ぶ。
「大魔王の力を自分のものにしたって言ったでしょう!? 分類を打ち破ったはずでしょうが!?」
 訴えるロザリーに隙が生まれ、スタンの払った手に、日傘が弾かれ、宙を舞う。
 ロザリーの足元の影が、ピンクへと変わる。その変化に、スタンの目が奪われる。
 その一瞬をついて、ロザリーは大きく後ろへと跳び間合いを取る。
 レイピアを構えて、深呼吸一つ、上がった息を落ちつける。
 数間、ロザリーの影を怪訝な表情をして、見ていたスタンが目線を上げ、ロザリーを見る。
 その様子に、何か思い出し、正気にでも戻ったのだろうかと、ロザリーは淡い期待を抱く。
 しかし。
 すばやくロザリーに向けられたスタンの手の中に、生まれた炎が爆発音とともに放たれる。
 間合いが仇となり、そして油断からロザリーが対応に遅れ、爆炎に吹き飛ばされながら、炎に巻かれ、ロザリーの意識は、刹那、完全に暗闇へと閉じ込められる。
 飛ばされ転がりながらロザリーは、顔を覆い隠して、冷気を生み出す魔法を使い、ロザリーを包む炎の内側から、冷気で炎を吹き散らす。
 ロザリーは片膝をついた格好で、その場に立ち上がろうとするが、飛ばされた時、かなりの痛手を負ったのか、すぐには立てずに膝を震わせる。
 その光景に、ルカは重なるものがあった。
――…このままじゃ、夢の通りにっ…
 夢ではない。これは夢ではない、とルカは自分自身に言い聞かせて、足を1歩踏み出そうとする。
 とん。と、ルカの足は、簡単に踏み出せた。
――…動ける!
 そう、ルカが思った時にはすでに、ルカはその場所から駆け出していた。
 スタンが未だ体勢の整えきれないロザリーに向かい、ゆっくりと歩き出して――
 その体に、何かが、ぶつかった。
 衝撃は軽く、全くスタンを動じさせることは出来なかったが、そのぶつかったものに、スタンは目を向ける。
 スタンの足元に、少年が1人、尻餅をついていた。突っ込んでいったものの、ルカが逆に力負けして、引っくり返ってしまったのだった。
「なんだ、人間の小僧……余の邪魔をするというのなら容赦せんぞ」
 スタンは冷たく言い放ち、1歩ルカの方へと、炎を手の平にかざし、踏み出して、その影を踏む。
「待つのじゃ、魔王! その者を傷つけることは、わらわが許さぬ!」
 それまで悠々と、魔王と勇者の対決を傍観していたマルレインが声を張り上げる。
 マルレインの声に、スタンは王女に一瞥くれる。
 しかしすぐさま、スタンはマルレインから目を反らす。移す視線の中、スタンを見上げているルカを通りすぎて、スタンが戦っていた相手、女勇者の姿を探す。
 そこに。
「大魔王! 覚悟!」
 凛としたロザリーの声が響き渡る。
 いつの間にか、立ち上がっていたロザリーが、火傷に気を殺がれることなく、スタンに向かって走り出してきていた。
 その目も顔も、勇者としての面構えで、倒すべき敵を、視線鋭く捕らえている。
――…ロザリーさんも!?
 分類に取りこまれてしまったのかと、ルカは目を見張る。
 スタンが片足退いて構えた時には、もはや回避不可能な距離まで、ロザリーは迫っていた。そこに飛ぶルカの声。
「ロザリーさん! ダメだよっ!」
「……!」
 ロザリーの顔に、驚きが生まれる。
「あ……」
 分類から目覚めて、ロザリーは微かに声を漏らして状況に混乱するが、走る勢いは緩むことなく、ロザリーの突き出したレイピアは、完全に標的であるスタンを捕らえ……。

 一瞬、ロザリーの思考に、スタンなら空間を渡り回避も可能だと、そんな考えが浮かんだ。

 しかし、次の瞬間。
 鈍い音を立てて、しかし吸いこまれるようにレイピアが、スタンの胸を突き刺し貫いていた。
 スタンは数歩、後退する。勢いついたロザリーに押されるように。
 その光景を近距離で目の当たりにしたルカの顔が歪む。
「な…っ!?」
 仲間の誰かの声が、聞こえた。もしかしたら、全員の声だったかもしれない。
 ただ、あまりにもその声が遠すぎて――遠く感じられて、分からなかった。
 そして、ロザリーは。
 レイピアごしに伝わった甚だ嫌悪を感じさせる感触に、目を見開いて、スタンの胸に突き刺さる自らの剣を凝視する。
「…い…っ」
 その口から、引きつった声が漏れる。
「いやあぁぁぁぁぁぁっ!」
 涙すら滲ませて、絶叫するロザリーの声が、空間にこだました。
 意識を奪われていたとはいえ、自らの仕出かした所業に愕然としながら、ロザリーは、その手を、レイピアから離そうとする。
 首を微かに左右に振ると、涙がロザリーの頬を伝い落ちる。
 スタンからをも離れようとするロザリーの、その腕をスタンの手が捕まえる。
 ロザリーは表情を強張らせ言葉を失って、捕まれた腕とスタンを交互に目線で見比べる。
 スタンの、苦痛と笑みを持ち合わせた口の端から、一筋の血が滴る。赤い、人のそれと同じ色で。
 ロザリーが腕を引く、スタンの手から逃れるようにして。しかし、胸を貫かれてもなおスタンの方が力は強く、手を払えない。
 スタンの腕に、より力が込められる。
 ロザリーを、引きずるようにして引き寄せる。
 スタンは、足を踏ん張って抵抗をするロザリーを、力任せに勢いつけて引き寄せその背に爪を立てるように服を掴む。
 ほとんど、ロザリーを抱きかかえるようにしたスタンの胸に、ロザリーを引き寄せたことによって、さらにレイピアが、その体をえぐる様にして深く刺さってゆく。
 立ち上がりながら、ルカが止めようと言葉を放とうとして、その時、微かに、スタンの唇が動いたような気がした。ルカには、動いたように見えた。
「……え?」
 ロザリーの呟きが聞こえて、ロザリーがその面を上げるのと同時に、スタンの魔力の込められた手刀が、ロザリーの首筋を凪いだ。
 ロザリーの首から、大量に血が吹き出る。
 ロザリーの勇者装束が、白のそれから、その赤に染まる。
 スタンは、壮絶な笑みを浮かべて、女勇者の返り血を浴びる。
 ロザリーの目は見開かれたまま、スタンを見上げ見つめて、その目がだんだんと焦点を見失ってゆく。
「あ、あああ…」
 ルカの口から、絶望的な、意味を為さない、音が漏れる。
 ルカの瞳が揺れ、その視界の中、スタンの身体が傾き、ロザリー共々、血の飛び散った床に倒れる。
 嫌な音を立てて、レイピアの切っ先が床を引っ掻き、掛かる重みに耐えきれずに音を響かせ、無残に折れる。
 スタンとロザリーの血液が、入り混じり、床に広がってゆく。
 ルカの足元までも、その血の流れはあっさりと到達し、ルカはその血に流されるように、後ろへと下がる。
 ただ、ひとつ、夢と違っているのは、二人が闇に霧散していないということだけだった。しかし、そのことに何の意味もない。
 ルカの耳に、くすくすと、笑い声が聞こえる。
 誰のものだろうかと考えるが、あまりにもその笑い声がルカの傍で聞こえたので一瞬幻聴だろうかと、ルカは己の耳を疑った。
「これで、魔王も勇者も、それぞれの役割を終えたのじゃ……」
 ルカは振りかえる。
 空間を渡ったマルレインが、ルカの背後に現れていた。
「もともと、最初から、あの二人は共倒れするように、運命付けられておったからの」
 目を細めて、未だ血の止まらぬ両者を見下ろして、マルレインが呟く。
「………え…?」
 ルカの口から、かすれた声が流れる。
 マルレインは、視線をルカへと移す。微笑を浮かべて。
「本来定められていたわらわと選ばれし勇者ロザリーの旅の果ては、そう決められておったのじゃ。勇者は魔王と共に倒れ、王女であるわらわが、その勇姿を民草に伝えるとな。これで、歴史は正しく修復されたのじゃ」
 そう無邪気に、マルレインが言い放つ。誇らしげに、満足した顔をする。
 ルカは、瞬きすらせずにマルレインを見つめた。
「…? どうしたのじゃ、ルカ?」
 小首を傾げて、心底不思議そうな顔を、マルレインは見せた。
――……スタンが、ロザリーさんが……
 ただ、殺しあって、死ぬように決められていた?
 そして、今、そのようにして……。
 ゆっくりと、首だけ回して、視界の端に血溜まりの中心に倒れた二人を捕らえる。
 切っ先の折れた剣を胸から生やしたスタンと、そしてそのスタンにズレて重なるように倒れたロザリーの出血の量は、誰が見ても事切れているのが分かる。
 ルカは、信じられずに――信じたくなくて――立ち尽くす。
 そこに足音が聞こえた。複数の足音が近づいて来るのに気付いた。ルカはその方向を向く。
 仲間達がそこに立っていた。
 マルレインが、冷めた視線を彼等に送る。
「なんじゃ? わらわは、そち達には用はない」
「アナタに無くても、わたし達にはあるのよー!」
 リンダが、マイクを口に、マルレインを指差して怒りの口調でそう言い放ち、そして、
「スタン様とロザリーさんを相打ちさせたなんて、絶対許さないんだからー!」と、続ける。
「オレ、組長のこと尊敬してたッス! なのにこんなのヒドイッスよ!!」
 鼻息荒く、ビッグブルが大声を張り上げる。
「…まあ、なんだね。状況にただ指を咥えることしか出来なかった我々も、相当情け無いものだったが、しかし、これは心中穏やかとは言い難いところだね」
「ルカ。何を茫然としている。その娘は、お前の大切な少女とは別人なのだぞ。ベーロンと同じく、この世界を分類で縛ろうとする者だということを忘れるな」
 そう言われても、ルカは、今この場が、事態が、夢の続きのようでしかなく、現実味に欠けたものにしか思えなかった。
「わらわに刃向かうというのか?」
 マルレインが、仲間達に向かう。
 周囲の空気が振動したかと思うと、波動のような目に見えない空気の波が彼等を襲う。
 前方に立つキスリングとリンダがあっけなく、その波に押され飛ばされるが、後方に構えたビッグブルが、二人を受け止める。
 エプロスは、後退しながらも宙に舞い上がり、衝撃を緩和させ、同時に呪文を唱えて雷を発生させる。雷がマルレイン目掛けて走る。しかし、マルレインに届く寸前に、弾かれ消し飛んだ。
「なに!?」
 キスリングもまた、相手の動きを封じる呪文を発動させる。だが、マルレインには、全く効いていない。
「…ふむ…。魔法自体が、どうも彼女には無効のようだねぇ…」
 驚きながらも、状況を冷静に判断する。
「なら、オレが!」と、ビッグブルが、雄叫びと共に、マルレイン目掛けて突進する。
「この、無礼者どもがっ!」
 マルレインの一喝が響き、先程とは比べ物にならないほどの波動が、一気に放出される。
 爆発でも起こったのかと思わせるくらいの、見えないの圧力が、マルレインの目の前まで迫っていたビッグブルを吹き飛ばし、また、他の3人をもそのように押し飛ばす。
 仲間達は、部屋の壁に叩きつけられ、地に伏していった。
 リンダが、治癒魔法を使おうと口を開けるが、衝突の衝撃から上手く声が出せずに咳き込み、そのまま痛みに負けて、気を失う。他の仲間も、完全に気絶してしまったようだった。
 その様子を。
 ルカは、ただ、何も出来ずに見ているだけだった。
 まだ、悪夢の中にいるのか、と。
 仲間がマルレインに、刃を向けて。マルレインが仲間を、このように、討って。
 マルレインが、ルカを振り返る。
「これで、わらわを邪魔する者も、のうなった」
 彼女が、無邪気な笑顔をする。
 それを見て、ルカの内に、ふつふつと、沸き上がる感情があった――彼自身、まさか少女に対してこのような思いを抱くことになろうとは、まさしく悪夢でしかなかったが――。
 怒りが――これほどの怒りは、おそらく2度目――、1度目は、かつて分類を振り分けて、世界を支配していた男に。そして、今、その男によってかりそめの命を与えられていたこの少女に、言葉に出来ないほどの怒り――憎しみ――を覚える。
 いや、この目の前の女の子は、彼女ではない。
 姿形は、そっくりだとしても、彼女ではない。
 友も仲間も傷つけて、それでも笑っている、この、人形は。
「……君は、マルレインじゃない」
 かすれた声が、小さく漏れる。
「? どうしたのじゃ、ルカ?」
 王女は、きょとんと、ルカを見つめる。1歩、また1歩とルカに近付く。
 その人形を、真正面から見据えて、ルカは繰り返す。今度は、はっきりとした声で。
「君は、マルレインじゃない」
「ルカ、なにを言うておる。わらわはマルレインじゃ。わらわこそが、マルレイン王女じゃ」
 人形は歩みを止める。
「……違うよ。王女様でもないよ……」
 人形は、黙ったままでいる。
「この世界にはもう、王女様はいないんだよ」
 立ち尽くす人形の、横をすれ違って、ルカは倒れた仲間の元へと駆け寄る。
 気を失っている仲間を、魔法で癒す。微かなうめき声と共に、各々が目を覚ます。
 人形は、微動だにしない。
 ルカに助けられた仲間達が、再び人形へと構えるのを、ルカが止める。
 人形の肩が小さく震えている。それを、振り返ったルカがそれに気付く。
「わらわの、望みは、ひとつだけなのじゃ……」
 呟きは、届かない。人形の姿が、ふいに、彼らの視界から消える。
 次の瞬間には、ルカの正面に、人形が現れていた。とっさに、仲間が身構えるが、ルカはただ人形を、じっと見つめた。
「ルカ……わらわは王女じゃ。王女、マルレインじゃ」
 静かに、それまでの尊大さを失った口調で、ルカに告げる。
 ルカは、小さく首を横に振る。目を伏せて、人形から、視線を反らす。
「マルレインは……ボクの家で、ボクの帰りを待ってくれてる…。ボクは、マルレインに約束したんだ……」
――待ってて、と。
「だから、ここにいる君は、マルレインじゃないんだ……それに、もう、王女様の役を演じる必要もないんだよ……」
――君も、分類から、解放されたはずだよね?
「ボクの家の地下室で、ゆっくりと休んでいるはずだったのに……どうして…」
「わらわは、休みとうて休んでいたわけではない! 仕方なかっただけじゃ!」
 マルレインが、髪を揺らして否定する。
 ルカは、うつむいたまま、目を伏せている。
 人形は続ける。涙の流れない瞳も揺らせて。
「動けなくなっていただけじゃ……確かに、わらわの命は与えられていた命じゃ。それを抜き出され、動けなくなっても……」
 残るものはひとつだけあったのだと、そう言いかけて、ガクンと、人形が膝を地に付く。
「……なんじゃ…?」
 体に力が、入らない。まるで、命を抜かれた時のように、自由が利かなくなったことに人形は驚く。
「……もう、力が、残っておらんのか……?」
 唐突に、訪れた限界が、急速に人形から力を奪っていく。所詮かりそめの力。分類世界を維持していくなど、到底無理であったのだと、人形は今さらながらに理解する。
 人形の、絶望に近い呟きに、ルカは目を開き、彼女を見る。
 その顔は、かつて彼の屋敷の前で、壊された人形と同じ生気のないものへとかわりつつあった。
「……ダメじゃ…わらわは、まだ、望みを叶えて、おらんのじゃ……」
 あの時、命を奪われても、心だけは、残っていた。
 ルカへの、想いが、その心に。
 それが、今の人形の生きたいという意思の支えだった。
「ルカ……ルカ……どこじゃ…?」
 人形の視界は、もはや暗転し、その瞳は、虚空をさまよう。
 ルカは、事態を把握できないままに、言葉を持てず人形を、見ている。
「ルカ……わらわの、望みは……ひとつだけ……」
 空間が歪む。無理矢理に、ねじ曲げられて拡大させられていた部屋が縮み、以前見た正しい大きさへと戻った。部屋が縮んだ分だけ、全ての距離が短くなって、ルカの足元に、触れるくらいの距離で、人形は座り込み、仲間は背後でざわついて、そして、部屋のほんの少しだけ離れたところに、倒れた二人が動かずに、ある。
 人形は、頭を上げる力さえも残っていないのか、うな垂れている。伝えたい想いを、言葉に乗せる。
「……わらわが……ルカの隣で、笑っていたかっただけなの……」
「っ! マルレ……」
 ルカが、手を伸ばす。
 しかし、それが、人形の限界だった。
 ルカの手が届く前に、人形は、くしゃりと、床に崩れ落ちた。
 ルカは片膝付いて、かがみ込み、人形のを抱き起こす。……軽い。
「ゴメン……」
 ルカは、人形に、そう言わなければならないような気がして、呟いた。
 この人形は、マルレインと同じ存在だと、マルレインのただ、代わりだと思っていた。
 実際、彼女の父親でさえも、きっとそうとしか見ていなかっただろう。
 だが、この人形は、もはや別個の一つの意思体として、確立されていたのだ。
 それに、気付くことが出来なくて……だから、ゴメン。と。
 無論、ルカが負い目を感じることのないことだった。しかし、ルカはそう言わなければ、なんだか救われないような気がしたのだった。

 人形が、力を失ったと同時に。世界から分類は、再び消えた。



 そして、ルカの家では。
「ジェームス、ジェームス! お姉様の目が覚めたよ! お母さん呼んで来るね!」
 大声上げて、アニーが、部屋を飛び出して行く。
 ベッドに横たわったまま、ぼんやりと、マルレインが天井を見上げている。
「おお、よかったですぞ、マルレイン殿。ご気分はどうですかな?」
 傍らで、ジェームスが声を掛ける。
 そのマルレインの瞳に、涙が溢れる。
「ど、どうされたので?」
 驚き慌てるジェームスに、マルレインは告げる。
「……ごめんなさい……あたし……とんでもない事を……」
 うわ言のように、マルレイン。涙がつたう。
「……あたし……スタンと…ロザリーを……殺してしまった……」
「……はい?」
「あたしが、殺したの……っ!」
 マルレインが、両手で顔を覆う。
 ジェームスは、ワケが分からずに、部屋に近づいて来るアニーとその母親の足音を、聞いていた。



人形を抱きかかえ、立ち上がったルカが、スタンとロザリーへと視線を向ける。
 未だに赤く水溜りのように広がっている血液に、違和感を覚える。
「スタン様ぁ〜」
 リンダが、うるうると瞳を揺らせて、地に臥す二人から顔を背けてエプロスの胸に顔を埋める。
 エプロスは、そのリンダに一瞬戸惑って、しかし、ルカと同じく何かしらのおかしさに気付き怪訝な顔を見せる。
 ピクリと、スタンの肩が動いた。
「!?」
 ルカが目を見張る。それと同時にスタンの両手がロザリーの肩を掴んで、ぐいっとその体を引き剥がす。
「ったく! いつまで寝そべっとるんだ! 重いではないか、周りの空気の読めん鈍感女!」
「いった〜っ! ちょっと! こっちはヤケドしてんのよ!? それにあたしだって、もうそろそろ、そうしようかと思ってたわよ!」
 血まみれのまま、ひょいっと上体を起こして、怒鳴り合うスタンとロザリー。
 一同は、突然のことに言葉を失う。リンダさえもエプロスのベストを握ったまま、きょとんと涙の引っ込んだ瞳を点にして、スタンとロザリーを見つめていた。
「…………すたん……? ……ろざりぃ、さん……?」
 呆気に取られたルカが、かろうじて二人の名を口にする。
 しかし、あまりにその声が小さくて二人の耳には全く届いていなかったようで、なおも二人は言葉の応酬を続ける。
「大体、アンタがいけないんでしょうが! 拉致られるわ、操られるわ! どれだけメーワク掛けたら気が済むわけ!?」
 ビシッとスタンの鼻先に人差し指を突き付けてロザリー。
「ぐ…っ! それはだなっ!」
 速攻で図星を突かれて、スタンは言い淀む。
「さあ、ホラ! 魔力を戻してあげたんだから、さっさとこの影、直してもらいましょうか!?」
「……な、何を言うか! お前が戻したわけではなかろうが! それに、最終的には余の天才的な演技力でもって救われたくせによく言うわ! 今回は無効だ! 無効!」
 スタンは立ち上がって、ロザリーを見下ろし怒鳴る。
「なっ、なななな、なんですって!? ちょ、それズルいんじゃない!?」
 ロザリーも立ち上がり、食って掛かる。と、そこに。
「あー……二人とも。ちょっと落ちつきたまえ」
 キスリングが見かねて、止めに入る。
「……済まないが、説明してくれるとありがたいのだがね……。どうして、君達は生きてるのかね?」
 その場にいるルカを始めとした一同が、同時に頷いて、キスリングに同意した。なにせ、未だにスタンは胸から剣の柄を生やし、ロザリーは血に染まった服でいるのだから。
「……実は、あたしもよく分からないんだけど……このバカが『死んだフリしろ』って言うもんだから……。それより、どうしてくれんのよ、あたしのこの服。一張羅なのに、血まみれじゃない。剣も折っちゃうし……」
 ロザリーが不満げに、スタンに訴える。
「バカとはなんだ! ふん、これは全てマボロシだ」
 スタンが言い終わるが早いか、床に広がった血液の水溜りは消え、ロザリーの服も本来の純白へと戻る。
それからスタンは胸からレイピアを引き抜く。いや、小さく空間の歪みが見られた。その歪みの隙間から剣が引き出されている。床に転がっていた折れたレイピアの切っ先も、姿を消していた。
「うそ……、確かに手応えがあったのに……」
 驚くしか出来ずに、ロザリー。
 スタンはその剣を、ぽいっと投げ返して、鼻で笑う。
「余に掛かればこれしき、片手間にも満たんわ」
「……はあ。そうだ、アンタ、いつ正気に戻ったってのよ?」
 聞きながら、剣を鞘に収める。少なくとも、スタンが正気に戻ったのは、戦いの最中であるはずなのだが。
「くくく、低俗な貴様には、余の完璧な演技を見破れなかったようだな」と、得意げにスタン。
「……答えになってないんだけど?」
 一同が、呆れるの中、ルカだけが、なんとも言えない、怒っているような、情け無いような、安心したような、複雑な面持ちで二人を見ていた。
「……どうして…死んだふりなんてしてたのさ、スタン」
 ルカの声は静かなものだった。
 スタンは、ルカへと視線を向ける。
「余の崇高な作戦がどうも理解できんようだな、子分。まあ、お前が知る必要はない」
 スタンにそう言われて、ルカはしょぼくれる。
 実際のところ、行き当たりばったりの、作戦とも言えない事態への対応だったとは言えずに、スタンは虚勢を張りつつも、ルカの抱きかかえる人形を見た。
――望み、望みと、しつこく言っておったと思えば、あのような望みであったとはな…
 こっそり、そんなことを思う。
 スタンが、正気に戻ったのはロザリーの影を見た直後、ルカの影を踏んだ時だった。
 自分の魔力によって変質した女勇者の影と子分の少年の影が自分を思い出させたのか、影に残る己の残留思念が意識を取り戻させたのか、それは定かではなかったのだが。
 その時、人形に捕らえられていた間、ずっと本体が見ていた幻の光景通りの状況下にいることに気付いた。
 ルカとロザリーの見ていた夢をまた、スタンも同時に見せさせられていたのだった。
 そして、とっさに思いついたのが、死んだフリ。
 人形の望みとやらにも興味があったスタンは、それを知るためには、まず、魔王と勇者が共に倒れなければ話が進まないと、そう考えたのだった。
 スタンの勝手極まる発言に、一同が沈黙していると。
「おい、貴様ら。いつまでこんなジメジメしたところにおるつもりだ。とっとと帰るぞ」
 今度のことで一番、多大なる迷惑をかけたスタンは、全くそのことを気に掛けずに、いけしゃーしゃーと、そんなことを口にして、出口へと歩き出した。
 それを見ながらロザリーは、息を付く。
「現金なやつね…まあ、いいわ。ルカ君、スタンも戻ったんだし、きっとマルレインも君を待ってるはずよ。早く帰ってあげましょう?」
「……はい」
 頷くルカに微笑むと、ロザリーも日傘を拾って、他の仲間と共に出口へと向かった。
 遺跡から出るまでの間に、ルカがキスリングに夢のことを話した。どうしてもなぜ、あのような夢を見たのか自分では答えが出せなかったからだ。
 キスリング曰く。
 夢は、人形が魔王と勇者とを、その思うようにさせるがべく、ロザリーの意識に干渉していたものだったのだろうが、ルカさえもその夢を見ていたのは、ルカがこの世界で特異であるためだったのだろうと、よく分かるような分からないような説明でもって、ルカに解説した。
 しかし、その横から、ロザリーがこう言った。もしかしたら王女様は、本当は、ルカ君に止めて欲しかったのかもしれないわよ、と。
 そっちの方がいいな、とルカは思った。

 遺跡を出ると、日の光に目が眩んだ。太陽は、ちょうど、真上に差し掛かっているところだった。
 それから皆はリシェロを出て、各々別れて行った。
 まず、エプロスとリンダが、このままサーカステントに戻ると言い出し去って行った。
 リンダが、彼女によろしくねと、そう言ってくれたことがルカには嬉しく感じられた。
 ビッグブルは、エプロスとリンダの後姿を、やや物悲しそうに見ていたが、人形にあっさり弾き飛ばされたことの方がショックだったらしく、まだまだ修行が足りないッスと、いずこかへと土煙と共に姿を消した。
 キスリングは、マルレインのことは気になるが、ロザリーの言った通り、もう彼女は目覚めているだろうとルカを元気付けて、リシェロ周辺で、ちゃんと分類が消えたかどうかをオバケの調査がてら確認すると、再びリシェロ村へと戻って行った。
 そして。
「子分。帰るぞ」
 スタンが、人形を抱えたルカの襟首を引っ掴む。
 スタンの周囲の空間が、ブレる。
「…っ!」
 ロザリーは、それが何を意味するのかを瞬時に理解して。
 とっさに手を伸ばす。握る。服の端を。
 同時に3人の姿が、日の光を眩しく照り返す浜辺から消えた。



 半身起こしたマルレインは、事の次第をジェームス達に話し、その瞳からぽろぽろと涙を流した。
「な、なにかの間違いでは……? まさか、坊っちゃまが…」とジェームスは言ったが、その生っ白い顔面をさらに蒼白に変えていた。
「マルレインお姉様、それって夢のお話なんでしょう? スタンはともかく、ロザリーお姉様が、そんなこと、あるわけないですよね?」
「……あたしが、夢で見てたことは……現実なの……」
 もう一人のあたしがそう仕向けたの、と声には出さずにマルレインは掛け布団に顔を埋める。
 と、そこに。
「くおらっ、余の服を離さんか! バカ女!!」
「みすみす見逃すワケないでしょうが! バカ魔王!!」
「……ねー……ケンカはやめなよ〜…」
 そんな声が聞こえ、空間の歪みから罵声を浴びせ合う2人と、その2人に呆れ返った顔をした少年が現れた。
「きゃー! スタンのオバケだーっ!」
「成仏してくだされ、坊っちゃま〜!」
 突然のことに、混乱に陥る約2名。
「はぁ? おい小娘、余を下等なオバケなんぞと一緒にするでない! ……あと、ジェームス、成仏とはなんのことだ?」
 怪訝な顔をして、スタン。そこに、ルカの母親が、あっけらかんと答えた。
「だって、スタンちゃんとロザリーさんって、心中したんでしょう?」と。
「ル、ルカ君のお母さん! なんの話ですか! それは…っ」
 慌ててロザリーが避難の声を上げる。
「いえ、しかし、マルレイン殿が……」
 ジェームスが、おろおろと、マルレインとスタン達を見比べる。
 一同が、目を見開いているマルレインを見つめた。沈黙が訪れる。
「……どうして…?」
 マルレインが、呟く。
「余は同じ事を説明する気はないぞ」と、スタンが腕を組む。
 ロザリーが「あれで説明のつもり?」などとぼやきながら、マルレインに近付き、その傍らにしゃがみ込む。
「マルレイン、あなたが悲しむことなんて、何ひとつ起こってないわ。それよりも、あなたとまた会えてよかった」
 そう微笑むロザリーは、その肌を炎症に赤くさせていた。それを見て、マルレインは辛そうに目を伏せる。
「でも……ロザリー……あなた、とても傷ついてる…」
「こんなのすぐに治るわ。心配無用よ」
 力強く笑って見せる。無理などではない。本当に、すぐに癒える傷だ。
 顔を上げロザリーを見たマルレインの顔が、視界の端に映った王女の人形に強張る。
 ルカは部屋の隅に立っていた。未だ人形を抱えたままで。
 マルレインは人形との接触が、不安なのだ。もし、また人形に共鳴してしまうとも限らないと。
 ルカが、マルレインの方へと歩き出す。
 傍まで来て、ロザリーの隣に座って、不安そうな瞳をするマルレインに首を横に振る。
 もう、この人形が目覚めることはないと。
 ロザリーが立ち上がり、2人から離れる。
 と、そこに無遠慮に扉が開かれた。
「さ、これでマルレインの目はきっと覚めるよ」
 意気揚々として部屋に入ってきたのは、今の今まで地下室にいたルカの父親だった。
 部屋に家族の者――とその他数名――が揃っているのを見て「おや?」と声を上げる。
「あれ? マルレイン、目が覚めたのかい?」
「もう、パパったら、とっくにマルレインは起きてたわよ〜?」
「ええ、そうなのかい?」と、父親は、一瞬少しばかり残念そうな顔をして、それから「うんうん、でもまあよかったよ」とあっさり気を取り直した。
「そうねー、今日はごちそうにしないといけないわ〜」と、母親ものんびりと言う。
「あ、ロザリーお姉様! あたしが傷の手当てしてあげます。さ、あっち行きましょう?」
「あら、そう? ありがとうアニーちゃん」
 目の覚めたマルレインには用のなくなった父。今夜の献立をあれこれ迷いながら母。女勇者の手を引く妹。そしてその手を引かれた女勇者と、次々に部屋の外に出て行く。
 しかし、一呼吸、間を置いてロザリーが戻ってきて「野暮な真似してんじゃないわよ、バカ魔王」と、スタンを部屋から追い出した。
 最後にジェームスが一礼し、ドアを閉める。その向こうで、扉1枚隔ててもなおよく聞こえるスタンの反論の声に、ルカは苦笑した。
 マルレインの顔は、暗く、沈んでいる。
「ごめんなさい、ルカ。全部あたしのせいだわ……」
「……そんなこと、ないよ」と、ルカは首を横に振る。そして「もしかして、全部知ってるの?」と続けた。
「ええ、見えてたわ…夢としてだけど……。その人形のしたことは、全部あたしの望んだことだったんだわ……。だから、あたしのせいなの」
「マルレインは、スタンとロザリーさんに……死んで欲しかったの?」
 ルカに聞かれて、マルレインは、大きくかぶりを振るう。
「じゃあ、マルレインのせいじゃないよ」
 はにかむルカに、まだマルレインは表情を曇らせたままでいる。
「あたし、思うの……あたしの汚い気持ちが、その人形に移ったんじゃないかって…」
 実の父親よりも目の前の少年を選んだ自分は、世界の誰よりも娘を優先した男と同じなのだと、少女はそう思うのだ。
 その思いが、長い間、魂も感情も共有したその人形に残ってしまったのではないかと。
「汚いことなんてないよ……誰にだってある気持ちじゃないかな……? それに、それって好きってことだよね……?」
 マルレインはルカを見つめる。
「……ありがとう……」
 それから少し、ルカの顔を覗き込むように首を傾げ、
「でも、ルカ? それが、あなたのコトだって分かって言った?」
「あ…」
 言われてルカは気付いて、耳まで赤くさせる。何気に言ったが、彼女の想い人は、この自分。
 そんな彼の様子を見て、そこでようやっと、マルレインに笑顔が漏れる。
 ルカも、そのマルレインに、照れ笑いを返した。



 翌日、ルカが庭に出ると、マルレインの姿が見られた。
「どうしたの? マルレイン」
 掛けられた声に、彼女が振り向く。
「久しぶりに風に当たってたの」
 マルレインは微笑む。いつもと変わらない笑顔で。
「……あら? ルカ、ヘアバンドは?」
 ルカの頭に、何も付けられていないことに気付いて、マルレインは不思議に思う。
「うん、ちょっと……」
「なくしちゃったの?」
「いや、そういうワケじゃないんだけど…」と、頬を掻きながらルカ。
 ルカは、外に出る前、地下室に寄ってきたのだ。
 そこに、ヘアバンドは置いてきた。せめて『彼女』の傍にいつも身に付けているものを置いてあげたいと、それが1晩考えて出した結論だった。
…あんなのじゃ、気休めにもならないかもしれないけど…
 そう思ったとき、ルカとマルレインの間を駆けぬける様に、突風が吹いた。
 押さえる物のない髪の毛が、ばさばさとなびく。
「やっぱり、ないと不便かなぁ…」
 髪を押さえながらルカが呟くと、マルレインが、
「じゃあ、あたしが新しいの作ってあげるわ」
 と、ルカに近寄り、手を握る。
「本当? …ありがとう。あ、そうだ、今度さ……」

―月光草を取りに行かない?

 ルカがそう笑顔で訊ねると、マルレインは満面の笑みで頷いて答えたのだった。



 手に少年からの贈り物を小さく握った人形が、地下室で、ひとり瞳を閉じ静かに眠っている。
 その『彼女』の瞼の裏には、少年の笑顔が見えているのだろうか。



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