Adagio tune



 和やかな日々の、ある昼下がり、少年はゆったりとした足取りで木々の生い茂る街道を一人歩いていた。
 ふと立ち止まり、くっ、と両腕を天へと上げて背を伸ばす。
 誰ともなしに「今日もいい天気だなぁ」と、気持ちよさそうに呟くと、手を下ろした勢いをそのままに、ぱんっ、と自分の足を叩いて、再び歩き出した。
 普段なら、時々ではあるが、人を襲うオバケが出てもおかしくないこの街道、最近はちょっとした事件から――もっとも、そのことは、この少年とごく少数の者しか知らなかったりするわけだが―、全くと言っていいほどオバケはその姿を消していた。
 そのあと大変な後始末が待っていたが、1名を除いて――その男が手伝おうものなら、おそらくいつまでたっても片付かないだろうとの推測で最初から頼むことをしなかったのだが――、皆で片付けるのは楽しかった、とも言えなくもなかった。
 今現在、庭は、随分と荒れたものの、以前と同じ景色に戻りつつある。
「今のところ、テネルが、世界で一番安全な場所なのかもしれないね」と言って、少年は口の端を緩める。
「魔王がいるっていうのになぁ」
 やはり誰ともつかず、独り言を吐く。
 かつて影に潜んでいた相手は、もうそこにはいないというのに、その頃についたクセなのだろうか、ついつい、ちょっとしたことでも口に出してしまうようになってしまった。
 そのようなことを、魔王本人が聞こうものなら、まず怒りムキになって、なにがなんでも邪悪な行いを決行しようとするのだろうが、あいにくやはりその人物はここにはいない。
 鼻歌交じりに少年は、歩みを進めて、ものの数分もせぬうちに目的地であるテネルの村に到着した。
 なんのために少年が、村に訪れたのか。
 それは、いつもと同じく、ほぼ習慣ともいえる、母親から仰せつかったお使いのためだった。
 パン屋のドアをくぐり、そこの女将から、いつもと同じパンを受け取る。
「今日はお支払いの日でしたよね?」
「ああ、そうだよ。ちょっと待っておくれね」
 女将が一ヶ月間の集計を手早く計算する。しかし合計を聞いて、ルカは驚かされた。
「ええっ! そんなに!?」
「いやそれがね、ルカ。スタンがね、お前のトコにツケておけってしょっちゅう来るものだからねぇ」
「…スタンが? そんなによく来るんですか?」
「ここ最近なら2、3日に1度かくらいは来るよ? なんだい、知らなかったのかい?」
「……ええ、はい全く…。そうですか…あ、じゃあ、とにかくお金を」
 これでは、預かってきたお金では足りないなと、自分の小遣いから不足の代金分を出してルカは深くため息をついた。
「じゃあ、これで」
 後でお母さんに請求しなきゃ……出来るかなぁ、と不安になりながらルカは包みを抱えて扉をくぐった。
 と、そこでふいに声をかけられた。
「あ、お兄ちゃん」
「え?」
 紙袋からにょっきり生えたバケット越しに、アニーと日傘をさしたロザリーが見える。
「あ、ロザリーさん、こんにちは……。アニー、何してるんだよ…?」
「ロザリーお姉様の買い物の手伝いに決まってるじゃない」
 買物の済んだあとの手提げを持ち上げて見せ、当然のように言う妹に、ならちょっとは家の手伝いもしろと言いたいところだったが、先にロザリーに発言権を奪われる。
「ルカ君は、またおうちのお使い?」
「はは…はい」
 曖昧な笑みで答え……もういいや……とアニーのことは諦めながら、歩き出す。
 アニーとロザリーも並んで歩き出し、ふと思い出したことがあったのか、アニーがルカの服を引っ張ってくる。
「ねー、お兄ちゃん。スタンに言っといてよ」
「? 何を?」
 なんのことかわからずに、ルカは妹の方を向く。
「メーワクだから、買物の邪魔しないで、って」
「…は?」
 やはりワケが分からずに困って、ロザリーの顔を見ると、苦笑いをさせ「あのね…」と彼女が補足する。
「よくあのバカ魔王が出没するのよ…それだけなんだけど」
「お姉様の悪口とか言うのよー!」
 スタンの罵詈雑言には慣れてしまったのか、どうしようもないと諦め切っているのか、ロザリーは比較的冷静であるのに代わって、アニーが唇を尖らせて怒りを露わにしている。
「だから、お兄ちゃんよろしくね!」
「アニーが言えばいいじゃないか……」
「言ってるもん! 今日だってさっき、言ったし。でも聞かないんだよスタンのくせに〜」
「…でも、ボクが言っても聞かないだろうし…」
「いいの! 1人より2人で言った方が効果ありそうじゃない」
「……そうかなぁ……」
 そんな兄妹のやり取りを無言で――しかし、なにやら複雑な苦笑いを見せて――聞いていたロザリーが、
「じゃあ、あたしはここで」
 と、テネルの宿屋の前で立ち止まる。
「え……あ…」
「あ、はい。お姉様、また明日お手伝いに来ますね!」
 言って早々と去るアニーとは別に、ルカは宿に入ろうとするロザリーを引き止める。
「あの、ロザリーさん」
「なあに?」
「あの、えっと……ここ……変わった事ないですか?」
「え? なにそれ?」
 宿を指差し言うルカに、建物を見上げてからロザリーが首を傾げる。
「その……いや、別に何にもないならそれで…いいんですけど……」
「…? ええ…普通の宿屋だと思うけど…?」
 いや、そーゆーことではなくて……と、言いたい気持ちを押さえて、ひとつ提案を持ちかける。
「あのー、よかったら…ボクの家、無駄に部屋とかありますし……わざわざお金払ってここに泊まることもないかなーって思うんですけど……」
 聞いてロザリーはきょとんとしてから、微笑む。
「やだなー、そんな迷惑なこと出来るわけないじゃない。ありがたいけど、それはね…。でも大丈夫よ? お金なら、マドリルに行けば仕事もあるでしょうし。ルカ君が心配することじゃないわ」
 いえ、だから…お金よりもっと他のことが心配なんですけど……という言葉を飲み込む。
「で、で、でも、ロザリーさんは、スタンに影を戻してもらう為にここに居る訳ですし、そのスタンはウチにいるわけですし…。都合がいいじゃないですか、ここよりも」
「そうねぇ。早く戻させたいんだけど…持久戦は免れないカンジだわ。………このまんまじゃ変わらないしね…」
 視線を落としたロザリーは、肩をすくめて息を吐く。
「え? あの、ロザリーさん?」
「…あっ、え、と、何の話だったかしら!? ああ、そうそう、ルカ君ちに厄介になるって話だっけ? そうね、やっぱりそれは無理だと思うわ、うん。じゃあ、またね、ルカ君!」
「あ、ちょ、ロザリーさ……!?」
 ルカの再度引き止める声を掻き消して、宿屋の扉が勢いよく閉められた。
「あ……あーあ…」
 扉の方に上げられた行き場のない手を引っ込めて、パンの包みを抱え直す。
 宿屋の建物を見上げて、溜息をつくものの、ここでじっとしていても何が変わるわけでもなし、ルカは何故か良心を痛めながら、家へと続く道へと足を向けた。
 雲はなく、遥か彼方から白き陽光が世界を光りで染め上げる。

 夜が明ける。
 ヒンヤリとした空気が駆け抜けて、森を起こす。
 鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえ始める。
――ヒマだな……。
 せっかくの晴れ晴れしい夜明けにも、なんの感慨も抱かずに、街道で朝を迎えた――自称邪悪な―─大魔王スタンはそんなことを思った。
 結局、これまで続いた退屈加減が、スタンにとってかなりのものになっていたのか、彼が足に任せて向かうのは、この付近で唯一、人の集まる田舎村になるのである。
 なぜ彼がこのような時間、このようなところにいるのか。
 単に、ふらふらと出歩いていた。ただそれだけのことだった。
 せっかく用意された部屋には居つかずに、大抵を外で過ごしている。
 そのわけを、以前、彼の子分である少年に聞かれたことがあった。そのとき、スタンは、
「落ちつかん」
 とだけ、答えた。
 どこまでも終わりのない広がりのある外にいる方が、まだいいと、なぜそんなことを思うのか、彼自身理解などしていなかったが、おそらくは、"中"が嫌なのだ。
 上下四方を囲まれた部屋は、さながら彼が300年過ごしたあの中のようで――。
 そしてまた夜明けは、あのとき味わった敗北を思い出させるのだった。
 差し込んだ一筋の光の下、復活の時がきたと・・・・・・なのに、結局壷の中に逆戻り。
――・・・・・・あれには起因があったのだろうか?
 例えば、そう例えばだ……そこまで考えて、スタンは考えを打ち消す。
 大魔王の生まれ変わりである自分が、そのようなことで乗り移る影すら選べないなどということは、絶対に認められないのだ。

 魔王は1度、食事時は忘れずに居候先の屋敷に戻り、食事だけタカったそのあと、また街道へと出て行く。
 分かれ道で、村とは反対の方へまずは、行く。
 するとすぐに立ち番を見つけた。その立ち番は、スタンを見ると声を掛けてきた。
「やあ、おはようさん」
「庶民が軽々しく余に話しかけるな」
「ははは、悪い悪い」
 まったく悪びれた様子なく、立ち番は謝る。スタンの言葉を冗談の類だと思っているようだった。
「ところでこの先に行くのかい? 自由に通ってくれて構わないよ。いやぁ、最近すごく平和でね。こうやって番してるのが勿体無いくらいに」
「当然だな。当分、下級魔族どもは現れんだろう」
「?」
 理由を知らない立ち番は不思議そうな顔をしたが、それを無視してスタンは、先日自分に刃向かうオバケを蹴散らしたそのことが、またも「善い事」になっていることには気付かないで、その先へと進んだ。
 道なりにぶらりと行くと、一定した風が吹き抜けてゆく。開けた場所が近いのだ。
 橋のもとまでくると、木々の間へ向かう風の強さが増した。
 その風を避けるかのようにふらりと脇の茂みの切れ目に、誘われるように足先を向ける。
 街道から外れた茂みの中、人の手の加わっていない森の入口をほとんど無作為に方向など関係ナシに歩いていた。
 このことは毎度のことで、街道を歩いていたかと思えば、ふいになんの前触れもなく木立の中へ足を運ぶ。
 別に妙な探検心でここを通るとどこに出るのか、とかではなく、街道ばかりだとつまらないだとか、昨日はこっちだったから今日はあっち、といった何の考えもない行動だった。
 そして、その散策にも飽きると、唯一この森の中に作られた村へと行き先を定めるのだった。
 お飾り程度の村の門をくぐる。来るたびに、相変わらずシケた村だな、と周囲も気にせず口にする。
 そこに訪れる方も来る方なのだが、スタンはそんなことには気付きもしない。
 さてどうするか、と考えるが、やることはいつも決まっている。
 とりあえず、スタンは村の奥へと歩き出した。
 ――スタンが真の姿を取り戻してからここに来たばかりの頃は、ルカをむやみやたらにテネルにパシリとして遣わせるという遊びをしていた。
 だが、その命令を下すたびにルカはマルレインと一緒に出かけて、なかなか帰ってこないという現象が起こり、まるで自分が二人にデートの口実と機会を与えているようで馬鹿馬鹿しくなり、すぐに止めた。
 それ以降は、自分で出歩きふらふらとしていた――時々、子分を巻き込み『邪悪な行い』をすることはあったが、何故か満足のゆく結果にはならなかった。
 しかし、今はよい暇つぶしが近くにいる――。

 ここのところ、ロザリーは機嫌が良い。
 いや、悪くて、それでいて、良い。
 テネルに宿を取ること数日。
 だが数日しか滞在していないのにもかかわらず、スタンとロザリーのなじり合いは、テネル村の住人に「ああ、そろそろ時間だな」と思われるくらいの、村のちょっとした見世物と化していた。
「アンタってとことん暇人ねー、なんにもしないで」
「なにもしておらんわけではない。まあ、余の崇高かつ邪悪な思惑は、貴様のような弛んだゴム腹女の頭が理解出来るわけなかろうがな」
「ウエストはカンケーないでしょう!?」
 と、こんなやり取りがほぼ毎日のペースで行われる。
 たった今も、そんなことがあった後だった。
 ルカの妹のアニーに買い物を手伝ってもらい――といっても女性一人の買い物の量などたかが知れているが――、そこにバカ魔王が現れて言い合いになったのだ。
 そしてその帰りルカに出会い、今しがた強引に話題を切り上げ宿へと入ったところだ。
 あのバカは…と呆れる反面、今日も来るだろうかとついつい思ってしまう。
 ふぅっ、とロザリーは大きく息をついた。
「…ど、どうかなさいましたか…?」
「え!?」
 声に顔を上げると、カウンターから宿の主がこちらを伺っていた。
「あー…いえ、なんでもないです。……ホホホホホ…」
 ロザリーは曖昧な笑顔で誤魔化し、差した日傘をそのままに、そそくさと部屋に戻った。
 部屋には、隅に、彼女の荷物が置かれていて、その他はテネルで買った生活用品等がそこそこに揃えられている。『持久戦』に備えての物だった。
 広く無い部屋を、ぐるっと見回して、もう1度深々と溜息をついた。
 この宿の前でルカに訊かれた言葉を思い出す。

"……ここ……変わった事ないですか?"

「変わった事って……なにかしら?」
 思い当たることは何もない。
 失礼な話しだが、田舎だからサービスが悪いとかだろうか?と考えるが、それはない。むしろ、色々と気を遣ってくれているようだし……。
 では、他の可能性は? と考えるがそれもまた、何もない。
 しばし考えて、「まさか幽霊が出るとかじゃないでしょうね?」と突拍子のないことを思いつく。
 "オバケ"は敵対するならば退治する対象であるが、"幽霊"となるとちょっと事情が違ってくる。
 かつてトリステで勝手に開く門を目の当たりにしたときのことを思い出す。
 あれは……ワケが分からず、少しばかり…ちょっとだけ怖い、と思った。
 それから、誰もいない街なのに、なぜかルカが物資補給を済ませたと言ったときは、背筋が寒くなったものだ。
 もし、その類のものだったら、正直、参る。
「……う……。やっぱり…」
 ここ数日で、ロザリーには考えたことがあった。
 このままでは、いけないと思ったのだ。
 このままでは変わらない。
 それは先程、自分で言った言葉だ。
 ならば、自分から変えるしかないではないか。
 自分が変わるのはなんとなく癪に障るので、変えてやるのだ。
 無理矢理に、上手くゆくかは、全く先の見えない分の悪い賭けであったが、切り出さないことにはこの停滞に流されているだけなのだから。
「…………よし……!」
 この日、ロザリーが一人なにかを決意したことは、まだ彼女以外には誰も知らない。

 テネルでの事の後、自分から訪れたということはすっかり忘れ、スタンは怒ったままで姿を消す――もっとも、街道を歩くにしても屋敷に戻るにしても、ちょいとばかりの腹ごしらえは忘れないのだが。
 やはり、女勇者は苦手だった。苦手だと思うものがこの世にあること自体、魔王にとっては甚だ不愉快なことである。
 原因は、三年前だ。
 大魔王の生まれ変わりとして君臨すべき自分が、たかだか勇者になりたての女に――負けたのだ。
 人間の影ひとつまともに乗っ取れなかったことは、魔王にとってかなりの衝撃だった。
 原因は解らない。
 大勇者になるべき人物だったせいなのか……あるいは……これは認めたくない仮説だが、己にはなんらかの呪いが掛けられていたのかもしれない。
 ポラックだか、なんとかという世界図書館から逃げ出した男による呪いだ。
 例えば、それは「分類に征されし者には取り憑けぬ」呪いだったかもしれない。
 魔王が呪いを掛けられるなどということは、認められない出来事だった。
 どちらにせよ、影は乗っ取れず、退散したことに変わりはなく、それは魔王にとって屈辱的な敗北になった。
 しかし、ただ敗走するだけでは気が済むわけがない。
 いつか来る復活の時、報復を見舞ってやろうと、目印をその人間の影につけた。
 再び封印の器に戻り、すぐに具合の良い影が見つかるだろうという執事の言葉とともに、それから3年を過ごした。
 後に、世界征服の旅に出た矢先2度目の出会い。自分の呪いを受けた影のせいで痛い目に遭ったというその言葉を聞いて、ザマアミロと胸がすっきりしたことを覚えている。
 そこまで思い出すと、スタンは上機嫌に変わるのだ。
 そして日が暮れ、闇が降りる。
 雲はなく、満月が明るく照っていた。そのせいで星は多いが見え難い。
 長い夜がまたやってきた。
 夜が再び明ける頃。
 昼間は、二度と行くかと思った場所へ、また訪れるのもよいか、と思い直す。
 結局、その繰り返しになるのだった。

 その日の夕方、ルカは食事時にはちゃっかり帰ってくるスタンを庭先で捕まえ抗議した。
 曰く、パン屋での買い食いの件である。
 いくら気の優しいルカとはいえ、小遣いの危機には黙ってはいられない。
 だが、そのことを端にも棒にも引っ掛けないのがスタンである。
「余はツケにしておけなど言った覚えはない」
「そんなこと言ったって、実際ツケてることになってたんだよ〜?」
「知らんな」
 スタンは、魔王がわざわざ人間から物を買うなどという行為はしないと、女将には「余自らが金を払うなどするわけがなかろう」と言ったというのだ。
 ルカは納得する。
 おそらくスタンの主張は本当のことなのだろうが、肝心なのは相手の受け取り方だ。
 パン屋の女将が勝手に、スタンは課長さんちの居候だから、とツケにしてしまったというところか。
 そう判断したルカは、深々とため息を一つ付いてから、
「・・・とにかく、もー、パン屋とか他のお店で買い食いなんか止めておいてよ?」
「だから買い食いではないと・・・」とほどんど水掛け論的に答えてくるスタンを遮って続ける。
「あ、それからアニーから伝言なんだけど・・・」
 そこで一度、言葉を切る。どう言おうか少し悩んで、
「・・・えっと・・・ロザリーさんにチョッカイ掛けるの止めてって・・・」
 スタンの顔色を伺うような声音で、おどおどとしてそう言った。
「ああ?」
 スタンの片眉が跳ね上がった。
 しかしその語気は、怒りというより思い当たる節がないといった感じである。
「・・・アニーとロザリーさんが買い物してるときに邪魔しに行ってるって聞いたんだけど?」
 と、言葉を補うと「そのことか」とスタンは合点がいった様子を見せ、
「余の支配下である田舎村に、あの羽毛ハタキ女がおるのだぞ? 余自らが出向いて排除してやろうと思ってな」
 ふん、と胸を張った。
 が、未だロザリーが村にいるということは、結局のところその作戦―なのか何なのか不明だが―は失敗しているわけで・・・。
「・・・それより、テネルって支配されてたっけ・・・?」
「なにか言ったか?」
「いや、別に・・・」
 小さなツッコミにも耳ざといスタンに冷や汗を流してルカは、ふと思いつく。
「あのさ、スタンはさ、ロザリーさんを村から追い出したいわけ?」
「あ? ああ、その通りだ。分かっておるではないか子分」
 唐突な質問にスタンは多少面食らいながらもそう答えた。
「実はさ・・・」
 ルカは宿屋の主人が、どうもロザリーに気があるのではないかということをスタンに話し出した。
 そしてその彼が、人には話せないようなコトをしていたということも。
 話した相手が良かったのか悪かったのか、スタンには「どうしてルカがそのようなことを知っているのか?」という疑問は浮かばなかったらしい。
「だから、そのことをロザリーさんに話せば、ロザリーさんも気持ち悪がってテネルから出て行くと思うよ?」
「ほう、子分にしては名案ではないか! あの女がヘコみ立ち去る姿が見えるようだぞ、くくくくく!」
 満足そうに腕組みをしてスタンは頷く。
「は、ははは・・・」
「では今から行って、とっとと追放してくれよう!」
 張り切るスタンが歩き出すと同時に玄関が開き、少女が顔を覗かせる。
「声がすると思ったら、何してるの? ご飯よ、二人とも」
「あ、ありがとう、分かったよマルレイン」
 ルカはマルレインに微笑みかける。
 スタンはしばし考えて、
「・・・・・・・・・ふむ・・・ならば明日にするか」と屋敷内に一人早々と姿を消した。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 はぁ、とため息一つ、これでロザリーさんを助けられるかな、と思いルカは安堵する。
 さすがに彼女の居ない間に、宿の主人がその彼女のベッドで身悶えをしているのかも知れないと思うと、放ってはおけないではないか?
 スタンを利用することになるけど、と肩をすくめながら玄関に寄るルカを見て、
「ねえ、ルカ。明日って、一体なんのお話?」
マルレインがくるくると瞳を輝かせて訊ねてきた。
「え、んーと・・・つまらない話だよ」
「・・・そう?」
「うん。それより・・・・・・」
 言いかけ、ルカはそこで苦笑いして「今、お腹鳴ったの聞こえた?」と照れた顔になった。
 マルレインは小さく吹き出す。
「ええ、しっかり聞こえた。ご飯冷めちゃうわ、早く行きましょう」
 頬を掻くルカの腕がマルレインに引っ張られて、二人は家の中へと入っていた。

 翌日、ロザリーは朝早くからマドリルへ出かけていた。
 今はその帰り道、天上過ぎた太陽の下、湖を左手に森の開けた場所を彼女はひとり歩いている。
 一張羅とも言える白を基調にした戦闘用の装束を着て、影を隠すための日傘を差して、彼女のいつものスタイルであった。
 もっとも、その腰に携えられた剣を抜くことは、森の中にある開拓村と巨大歯車の街との往復の道行きでは一度たりともなかった。
 その平和さのせいか、別に原因があるのか、ロザリーの足取りは、少し浮ついているようにも見える。
 いつもならオバケの出る場所で、こんな気楽な歩き方は、まず、しない。
 彼女の無意識の行為のようであった。
 ともすれば、力を入れてしまいそうになる手の平を意識して、胸に抱く小さな紙袋を潰してしまわないように気を付けて。
 顔付きはどことなく嬉しさを含んでいて、ちょっとだけ緊張した様子も垣間見える。
 その彼女の眉が、軽く寄せられた。
「ここまではいいとして・・・」
 周りには誰もいない。独り言だった。
「これからどうするか、よね・・・」
 足元を見つめる。
 歩く速度が目に見えて遅くなった。
 ぶつぶつと、何やら呟いては「それはちょっと・・・」とか「これもねぇ・・・」などという言葉が小さく漏れている。
 しかしそのあとすぐに沈黙が訪れ――
「む、難しく考えるからダメなのよ。きっと、なるようになるわ! ええ、そうよ!」
 結局考えるのを、止めた。
 なにかと『勇者として頑張らねば』という思いが、長年の間彼女に刷り込まれたせいであろうか。
 その妙な独り言の癖で自己完結をして、日傘の柄を強く握り顔を上げ、妙に勇んでロザリーは新たに歩き出そうとして・・・。
 その目の前に、突如何者かが現れた。
「っ!」
「お、なんだ貴様。その格好からするに、余に敗北を認めこそこそと尻尾を巻いて逃げ出すところであったのか?」
 態度も服装もいつも通りに、自分を大魔王だと言い張って聞かない男が、相変わらずの口を利いた。
「ち、違うわよ! なんであたしがアンタなんかから逃げ出さないといけないわけ!?」
「まあ、そんなことはどうでもよい」
「・・・どうでもいいなら、いちいち言わないでよ・・・」
「丁度よかったな。今日はこの余がわざわざ、貴様の寄生しておるミミズのフンのような宿に出向いてやる予定だったのだ。ありがたがるがよいぞ」
 彼女の言葉を聴かずに、スタン。
 言われたロザリーは一瞬反応が遅れ引っくり返った声で「はぁ?」と、そう言うのが、やっとであった。
 そのロザリーに、さっさと行くぞと言わんばかりに、踵を返して背を向けて、とっとと歩き出す自称魔王。
 スタンの背中がかなり離れてから、ロザリーは我に返る。
「ちょ、ちょっと・・・ちょっと、スタン!」
 非難の声を上げながらロザリーは、その後ろ姿を追いかける。
「ちょっとっ! なんなのよ、どういうこと?」
 追いついて、スタンを見上る。
 スタンは止まろうともせず「行けばわかる、喚くな」とだけ答えた。
「そういうわけにも・・・」
 反論しかけて、またスタンとの間に距離が出来ていることに気付く。
「そんなに急がなくてもいいじゃない」
「これで普通だ。お前の足が短いだけであろう?」
「なんですって!?」
 もともとのコンパスの長さが違うのは仕方の無いこと。怒りを露にしながらも、ロザリー一人早足ででその後を付いていった。
 宿に着き、軽く息の上がったロザリーに「で、貴様の部屋はどこだ?」とスタンが尋ねる。
 ロザリーは無言――呼吸を整えていた――で、上を指差す。
「上か…と、おい、お前が鍵を開けんと入れんのだから、お前が先に上がらぬか」
「……………」
 大きくため息をついて、ロザリーが階段を上がり始める。
 スタンもその後ろに続こうとして、自分たちに向けられている視線に気付いた。
「…なんだ?」
「あ、いやいや、なんにも」
 ロザリーとスタンが、宿屋の扉をくぐった時からカウンターで一連の成り行きを、声を掛けることも出来ずに呆然と見ていた宿の主人がそこでようやく口を利いた。
 男の返事などどうでもよかったのか、ふんっ、と鼻を鳴らしてスタンは階段を上がって行った。
 宿の主人は、カウンターからやや身を乗り出して、そのスタンの足音を追うように見上げる。
 上方でドアの閉まる音が聞こえるまでそうしており、そこで体を引いて椅子に腰掛けた。
 これまでの数日間、ロザリーが客を連れてきたことは――アニーは買い物を手伝っても外でお茶をご馳走になる程度であり――無かった。
 その彼女が初めて、客を連れてきた。
 しかも、それがスタン。
 ロザリーとスタン。この二人の日常茶飯事的喧嘩は宿屋の主人の耳にも入っていた。
 だが、それを目の当たりにしたことはない。
 客が来ない宿屋でも、ほぼ一日中このカウンターに座ってボーっとするのが彼の毎日だった。
 向かいの肉屋が売れ残りを安くで売ってくれるので、食料には事欠かない。
 あとは時々、酒場に行く程度。
 ここは彼の城だった。
 そこに、彼が憧れている若い女性が泊り客でやってきた。
 ここは彼の楽園になった。
──だが。

 黄色の小さな花がペイントされた大きめの皿に、ロザリーが今しがた買ってきた洋菓子が簡単に整えられて、机の上に乗せられている。
「一人分にしては量が多くないか?」
 それを見たスタンの、スタンにとってはごく素朴な疑問であったその言葉に、ロザリーは微かに顔を引きつらせた。
「そ、そんなことないわよ!」
「これで普通だと言うのか? ふん、ブタになるモトだな」
「・・・・・・・・・・・・そう言いながら早速食べてるのは誰よ?」
 スタンが、ロザリーの言葉を取り違えてくれたので、彼女は平静を取り戻した。
 その彼女の様子には気付かずに、スタンは形の崩れた菓子をつまんで見せて、
「ところで何故、こんなにボロボロになっておる?」
「・・・・・・」
 スタンの歩調に合わせて歩いているうちに、思いきり手に力を込めてしまった結果だった。
 誰のせいよ!と、ロザリーは胸の中で毒付く。
 しかしそんな彼女がよもや、スタンを茶の席に招待しようと考えていた、などとは言えるはずがない。
 一つ、聞きたい事があったのだ。
 それから、言いたいことも。
 ただ、なんの笑い話か偶然か、呼ぶ前にこの男が来てしまったが。
「・・・で? アンタは? なんの用なのよ?」
「ん。ああ、そうだったな」
 ニヤニヤ笑いを浮かべて、心底楽しそうな、そんな顔をしている。だが、
「なに、もう少し経ってから話してやる」
「はあ?」
 怪訝な顔をするロザリーに、「菓子だけか? 茶も出せ」などと、客に有るまじきことをさも当然のように言い放つ。
 ジト目で、座っているスタンを見下ろして、それでもロザリーは茶の用意をする。
 といっても、朝の作り置きがあったので、それをグラスに注ぐだけだったのだが。
「ハイ、ドーゾ」
 トゲトゲしく言って、スタンに茶を出す。
 ロザリーは自分にも茶を入れ、口にする。
 渇いた喉に、中途半端なアイスティーが、ひどく美味しく感じられた。
 幾分、気持ちが落ち着いて、小さな正方形を挟んだ向かいに座るスタンを、ちらりと見た。
 菓子が口に合ったのか――それとも単に、腹が空いていたのか――、皿に伸びる手は止まる様子がない。
 奇妙な沈黙が場を支配した。
 スタンは、特に気にならないのか、黙々と食べている。
 柔らかな日差し差し込む窓の下から、遊ぶ子供達の笑い声が風と一緒に通り抜けていった。
 ロザリーはその中で、一人、中身が半分になったグラスを見つめて、ぼうっとなる。
 その空気があまりにも穏やか過ぎて、今この光景は現実なのだろうかと疑ってしまうほどに。
「・・・ねぇ、スタン?」
 至極落ち着いて、ロザリーは声を掛けた。
 何だ、と言う風に、ちょうど茶をすすっていたスタンが目線を上げる。
「アンタってさ、まだ世界征服しようとか思ってるわけ?」
「無論だ」
 口の中のものを流し込んでから、スタンはさらっと答えた。
「本当に?」
「くどいぞ、貴様」
「だって・・・アンタ見てたら全然そんな気なさそうに見えわよ?」
「これだからシロートは・・・。今は温存期間なのだということが分からぬのか? 今にこの余が世界を恐怖と力で征服してくれる」
 皿に手を伸ばしながら、そういうスタンには説得性は垣間見えなかった。もちろん威厳などはハナから無い。
「なんの素人なんだか・・・」と、どうでもいいことに突っ込みを入れてからロザリーは続ける。
「でも、ほら・・・王女様・・・の人形が言ってたじゃ・・・」
「あれはあの小娘の戯言だ!」
 スタンが急に声を荒げた。
 あの人形の問い掛けが、スタンの頭の中で蘇る。

 魔王ノ望ミハ、ナニ?

 あれ以来、この数日はすっかり忘れていたことが思い出された。
 スタンには、まだ答えを持たない。
 常に、即決断の彼には、答えが簡単に出ないことほど、面倒なことはないのだろう。自然と目つきが険しくなる。
 睨む先には、目を見開き驚いたような顔をさせたロザリー。
 しかし、すぐに彼女は不可解そうに眉を寄せて、
「な、なにムキになってんのよ・・・」
「ムキになどなっておらん。貴様がしつこく食い下がるからだ。つまらん話は止めろ」
「つまらなくなんかないわよ。アンタが世界征服諦めてないなら、阻止しないといけないしね」
 言い切って、ロザリーは茶を飲む。
 おおよそ、この和やかな雰囲気と激しくギャップのある話の内容は、第三者がみればシュールな光景なのだろうなと女勇者は、苦笑を隠してそう思う。
「はっ、貴様のような鉄砲玉勇者など返り討ち決定だ」
「口先オンリー魔王のくせによく言うわよ」
「なんだと・・・!」
 仄かに、ロザリーの頬に朱が昇っていることには気付かないで、スタンが歯軋りして人のそれより尖った犬歯をちらつかせた。
 怒り露なスタンに対して、ロザリーは頭の中で言葉を選んで、大きく静かに息を吸い込む。勢いつけるように、早い鼓動を抑えるように。
 しかしそれを気取られぬよう、表情には上っ面だけは余裕の笑みを浮かべる。
「どうせアンタのことだから、独りじゃ旅にも出られないんでしょう? なんだったらナビくらいならしてあげるわよ〜? とことん邪悪な行いとやらを邪魔しまくってあげるけどね」
「・・・ふ、フザケるなっ!」
 椅子を蹴り飛ばすようにしてスタンが立ち上がる。
「大真面目だけど?」
 気色ばむスタンを一度見上げてから、ロザリーはカップを手に取る。
 咽喉が渇いている。先ほどよりずっと渇いている。
「あたしは勇者だもの。悪事は見逃せないでしょ?」
「・・・貴様、まだそんな分類に縛られたモノの考え方をしとるのか?」
「違うわよ。あたしがそうしたいと思ってやるんですもの」
「あ?」
「別に、勇者だから正義を行うわけじゃないってこと。あたしはあたしっていう勇者なんだって思ってるけど? あたしが正義を行いたいって思ってるだけで、勇者の義務だなんて思ったことないわよ」
 何か言おうとスタンが口を開きかけるが、ロザリーが早口にぽつんと言った。
「スタンは、300年前の大魔王みたいに世界を壊して世界を征服するのが義務だとか、そんな風に考えてるわけ・・・?」
「義務? 戯言を」
 鼻で笑い飛ばす。
 スタンは、自分が面白いと思うことをやるだけだ。
「余は・・・」
 と、そこに。
 階段の軋む微かな音がスタンの耳に聞こえた。
 ロザリーは気付いていない様子で、途中で言葉を切ったスタンをきょとんとして見上げている。
 スタンの顔が、邪悪そうな笑みに変わる。
 しかし、見ようによっては、とても楽しい悪戯を思いついた子どものそれにも見え・・・。
「何よ・・・どうし・・・」
 スタンの変化に、眉を顰めるロザリー。
 薄い扉の向こうで、ゆっくりと、至極音を立てないように階段を上ってくる人の気配。
――・・・・・・からかってやるか・・・。
 スタンはロザリーの座る方へと近づく。
「・・・・・スタン?」
 ロザリーは傍まで来たスタンを見上げる。
 座っているせいで、ただでさえ背の高いこの魔王がより大きく見えた。
「お前が余の邪魔をすると言うのならば、今ここで余に歯向かえぬようにしてやるというのも手だな」
「・・・な・・・」
 椅子ごと体を引こうとするロザリーだが、その彼女の後ろは壁。
 スタンが壁と椅子の背もたれに手を付く。自然に魔王の顔が近づくため、ロザリーは目一杯離れようと、壁に背をしっかりとつける。
「ちょ・・・スタン・・・」
「貴様が言ったのだぞ? 余の邪魔をするとな」
 スタンは、じりじりと、顔を引きつらせるロザリーを眺めながら、間を詰めていった。
 その姿は、第三者が見ればまるで口付けでも強要するかのようにも見て取れる姿だ。
 テネルの村の宿の一室で、流れる風は沈黙し、静止した空間が支配している。
 部屋の中には二つの影。その一方が口を利く。
「邪魔をされるとわかっていて、それを放置しておくと思うのが間違いではないか」
 女勇者に向かい、黒の肌と服に自己主張の激しい金色の髪をさせた男が、髪と同じ色の瞳を笑わせた。
 そうして、さらに女勇者ロザリーに近づく魔王スタン。
 ロザリーの頭が彼女に、この男を突き飛ばすなり、そのガラ空きの腹に拳を叩き込むなりしろと命令する。
 が、肝心の体が、動かない。
 手に触れる布地を握り、俯いて目をつぶるのが精一杯だった。
 しかし、スタンの関心はというと、そのロザリーではなく部屋の前にある気配に向けられていた。
 こちらの様子を伺っているような空気が伝わってくる。
 と、そこでスタンは気付く。何故か、女勇者が大人しい。
 思い切り殴りかかってきそうな気性の持ち主であるのに。
 だが暴れられるより、都合がよい。
 ぎりぎりまで下を向き、強く目をつぶっている彼女を、少しばかり観察するように見ると、テーブルクロスを握り締める拳が・・・。

――小さく震えている・・・?

 意外だった。
 認めてしまうのは癪に障るが、この女は、自分を恐れるようなことはありえないとどこかで思っていた。
 スタンは単に近付いただけなのに、まだ髪にも腕にも、触れていないのに。
 ただの女のように、身を縮篭めて・・・。
「・・・・・・・・・・・・」
 普段、あれほどに自分に向かい、勇者だと大きな口を叩いているのに、全くおかしな女だ、と思う。
 いや、この女の言葉を借りれば、この今ある姿もまたロザリーという女勇者の一部なのだろうか?
 ならば大魔王ゴーマの生まれ変わりである自分は、その自分の望みは、決して・・・。
 と、そこで蝶番が細く音を立てた。
 スタンは部屋の出入り口へと視線をやった。
 目が合う。その向こうで、薄く扉を開き見る者と。
「覗きか?」
 途端に開きかけられたドアが閉まる。
「・・・え・・・?」
 ロザリーが、驚きに目を開いて極微小な声を発する。
 スタンは何と言った?
 恐る恐るスタンを見上げれば、その目は自分とは全くあらぬ方へ向けられている。
 その先を、追うようにして首を向けるのと同時に、廊下の方から人の足音が聞こえた。
 スタンと目が合ったことに驚いて、逃げ出したのだろう。
「え、え・・・?」
 ロザリーは、スタンと扉を見比べる。よく状況が飲み込めない。
 扉の向こうから人の気配が去るのと同時にスタンが、ロザリーから離れた。
「ここの主人は、客の動向を監視するのが趣味のようだな。人間にしてはよい趣向を持っておるわ」
 扉を一瞥くれながらスタンが吐き捨てた。
「え・・・それ、どういう・・・」
 事態を把握できないロザリーが、混乱気味に尋ねる。
 しかしスタンは、全く別のことに気を奪われていた。
 『魔王』の望み。
 それは、すなわち。
――余の望みだ。
 ゴーマの――世界を壊すのが――望みではない。
 面白いことをするだけ。面白いモノを手放したくないだけ。
 この世界は、在る事、それ自体が面白い。
 これは、征服欲というよりも――独占欲だ。そのためには。
「再び世界征服の旅に出るか・・・まあ、完全復活を遂げた余に掛かれば大した時間も要さぬだろうがな」
 しかし、簡単に手に入れるよりも。
「・・・な、なに言ってんのよ。あたしがそんなことさせないって言ったでしょ?」
 呆然とスタンを見ていたロザリーが、いつもの調子を取り戻して言い放つ。
 この女が居た方が、張り合いがありそうではないか?
「ククク、そんなに付いて来たくば、勝手に来るが良い」
 言わずとも付いてくるだろう、この女を傍に置いて、己の無力さを思い知らせ、思い切りヘコませてやるのだ。
「なっ! だ、誰も付いて行きたいなんて言っ・・・!」
 椅子から立ち上がりかけたロザリーの目の前で、スタンが消えた。
「な、なんなのよ! もう・・・っ!」
 しばらく、じっとスタンの消えた空間を見ていたが、大きく息を吐き出してロザリーは気分を一掃させる。
 旅に出ると言った。
 確かに。
 ロザリーの口元が綻ぶ。
 あの魔王のこと。
 きっと旅に出るのは明日からなどと、甘いことを言っているに違いない。
 そんなことを考えて、緩んだ表情のままロザリーは旅の荷物をまとめ始めた。
 そして、その夜。
 その宿の一階、カウンターで呆然と座る男が一人。
 スタンがとうの昔に帰った事など知らないで、いつまでも二階を気にしていた。
 よからぬ想像をぐるぐると頭の中で巡らせて、気付けばとっくに夜が明けていた。
 そして、泊り客の女性が朝、早々とチェックアウトし出て行ったあと、一人首を傾げた。

「おい、早くせぬか! 何をチンタラしている!?」
 スタンが玄関ホールで怒鳴っている。
 台所で少し遅れて朝食を取るルカが、こんがりと焼けたパンを頬張っている。
「ルカ、急いで食べるとノド詰まらせちゃうわよ?」
「あ、ありがと」
 隣で、旅支度をすっかり整えたマルレインがミルクをコップについでくれる。
「ったく、仕方のないグズ子分だな!」
「だから・・・」
 ゴメンってば・・・と、言おうとしたルカの言葉を、乱暴に閉められたドアの音がかき消した。
「・・・スタンてば、なんでいつもあんなにイライラしてるのかしら?」
「・・・ホントに、短気だよね・・・」
 本人が居ないので、同意する。スタンが居れば、殴られているかもしれないけれど。
「でも・・・」とマルレインが付け加える。
「でも?」
「・・・気のせいかもしれないけど、なんかスタンが一番浮かれてるような気がするのよね」
「・・・そうかな・・・?」
 首をひねりながらルカは昨日のことを思い出す。
 昨日、帰ってきたスタンが、急に旅に出るなどと言い出して、早急に旅支度をさせられた。
 別に、旅に出ることに反対する理由は思いつかなかったので、首を縦に振った。
 もっとも、嫌だと言ったところでその主張が通るような相手ではない。
 それに、スタンの言葉にマルレインが「楽しそう、わたしも行ってみたいわ」と言って笑った。
 だから、行くことにした。
 危険なこともあるかもしれないけど、それでも、きっと絶対守ってみせると。
 恥ずかしいので、そんなことは口には出さなかったけれど。
「マルレインも十分楽しそうだよ?」
「あら、ルカは楽しくないの?」
「・・・・・・ううん、楽しいよ・・・」
 もちろん、楽しいに決まってる。なによりマルレインが一緒なのだから。

 いつもと変わらぬ格好のスタンが独り歩いて来るのが見えた。
 眉間に寄るシワで、機嫌が悪いのは見て取れた。
「・・・ひとり・・・?」
 独り言に近い様子でロザリーが呟いた。
 しかしスタンは聞こえたらしい。
 ロザリーの姿を認めると、子分の少年が食事を終えるまでふらりと最後の散歩でもと思っていたのに、余計な女に見つかったと舌打ちをする。
「あ? そんなわけなかろう。子分どももすぐに来る」
「ども?」
「小娘のオマケ付きだ」
「へぇ・・・」
 どこか感心したような口ぶりでロザリー。
「ふん、それより貴様。まさか昨日の夜からここで張ってたワケではあるまいな?」
 スタンは、ニヤニヤと笑いを浮かべる。
「まさか」
 対照的に、呆れたような顔でロザリー。
「アンタの行動パターンなんてお見通しよ」
「はっ、余が子分の屋敷におったことも予測出来ずにふらふら無駄足を踏んでおったやつが、よく言ったものだな」
「なによ!?」
「事実ではないか、思考ロー回転女が!」
 互いに浴びせる雑言が、朝の森に飛び交い始めた。

 ルカとマルレインは家族に見送られて、外に出る。
 玄関先に、黒い魔王の姿は見当たらない。
「先に歩いてっちゃったのかな?」
 と、すぐ近くで、言い合う声が、耳に聞こえた。
 おや? と思い顔を見合わせ走り出す。
 とても馴染みのある、お世辞にも上品だとは言えない声を頼りに、その方へ。
 木々に囲まれた小さな街道の向こうに見える、黒と白の背中。
 ルカとマルレインに、二人が気付きケンカを止めてこちらを振り返る。
 なぜ、ロザリーさんが?と思うのと同時に、既視感を覚える少年。
 あの時も――分類に打ち勝った――二人に向かって走ったっけ・・・。
 そして。
 ああ、そうだ。
 ボクの世界は。
――スタンと旅に出たから。
 今、ボクの在る世界は。
――ロザリーさんが彼女と引き合わせてくれたから。
 そうして今ここに有るのだ、と。
「遅いぞ、子分! まったくトロいヤツだな、お前は。おかげでこんなヤツ相手に余計な体力を使ったわ!」
「あ、ごめ・・・」
「それはこっちのセリフよ! アンタはいちいちイチイチ、どうしてそう突っかかるものの言い方しか出来ないわけ?!」
「・・・あの、ロザリーさんも一緒に・・・・?」
「それを言うなら貴様のその、妙に癇に障るヒス声をどうにかしろ!」
 ことごとくルカの発する言葉は、二人の罵声に打ち消され、仕方なしにルカは黙り込む。
 一昨日、スタンは確かに女勇者を追い出すと言っていたはずなのに、どうしてかその女性は目の前で魔王と飽きることなくケンカをしている。
 どうしてこうなったのか全く分からないが、ロザリーがあの宿に居なければそれでよいので、そのことは口にはしない。
 その少年の隣から、楽しそうな小さな笑い声が聞こえた。
「・・・何、笑ってるの・・・マルレイン?」
 下がり気味の眉が尋ねる。
「ほら、わたし・・・正確にはわたしの代わりだった人形だけど、ちょっとだけだったでしょ一緒に旅したのって。だからなんか懐かしいっていうか・・・嬉しいっていうか・・・」
「・・・うん、そうだね」
 自然と優しい声が出た。
「・・・・・・バカらしい、さくさく行くぞ!」
 途端に降って来るスタンの声。
 ケンカは終わっていた。いや、中断させられた。
 ルカとマルレインのやり取りに、すっかり気を殺がれたというところか。
 一人さきに歩き出したスタンに、ロザリーが肩をすくめた。
「ねぇ、ロザリーも一緒に行くのよね?」
 尋ねるマルレインに、微笑み返して、
「ええ、あのバカ魔王、野放しには出来ないもの」と、ロザリー。
「・・・・・・あ・・・」
 ルカはふいに以前、トリステで聞かされた言葉を思い出す。

 あたしの本音を・・・――

 そして、あの時。

 あたしは勇者よ、邪悪を求めて去ってった魔王を放っておけるわけないじゃない――

――ああ、きっとあれが、この人の・・・・・・
「どうしたの? ルカ君」
「あ、いえ、なんでもありません」
 我に返って、慌てて答える。
「そう? じゃあ、まあ、そういうことで、改めてヨロシクね、お二人さん」
「はい」
「こちらこそ、よろしく。ロザリー」
 笑う。3人で。
「何をしている、下僕ども!!」
 離れた場所でスタンが吼えている。
 顔を見合わせる。
「下僕って、誰のことかしらね」
「あ・・・走った方がいいのかな・・・?」
「いいわよ、ルカ君。あんなの待たせれば」
 そう言いながら、ロザリーが歩き出す。ルカとマルレインもそれに続く。
 その様子を確認して、
「全く、何を悠長にしておる・・・」
 ブツクサと文句を言うスタン。
――・・・・・・だが、余は何をそんなに急いているのだ?
 ふと、そんな疑問が浮かんだ。
 封印の悠久よりもまだ遠く、時間は限りなくあるではないか。
 悠久よりも、遠く・・・限りなく・・・――
「ちょっと! 何ボーっとしてんのよ、スタン」
 気付けばロザリーが、ルカが、マルレインが、彼の目の前に居た。
 その声で、スタンの思考が霧散する。
 何か・・・何か、引っかかることがあったというのに。
「貴様らを待ちくたびれただけだ!」
 八つ当たりにも近い声を上げ、スタンは踵を返して歩き出す。
「・・・なんなのよ、もう」
 スタンはそんな不満の声を背中で聞きながら、自分が何を考えていたか思い出そうとするが、結局考えまとまらず、
――・・・まあ、よいか・・・
 と、片付けた。
「ね、ところで最初はどこに向かうの?」
 楽しさを隠しきれないといった様子で少女が、誰ともなしに問いかける。
「えっと・・・ハイランドなんてどうかな・・・」
 隣の少年が答える。
「馬鹿者。まずは人間どもの多い街だ。そこでまず余の強大無比な力を知らしめてだな・・・」
 魔王が、首を後ろに傾けて、斜に振り返り言い放つ。
「はいはい、そんな出来もしない予定は却下ね」
 言うのはもちろん女勇者。
「誰が出来もしない予定だと!?」
 足を止め、スタンがロザリーに突っかかる。
「じゃあ、他にないならハイランドにする? あそこはゆっくり出来なかったし」
 止まるスタンを追い越して、ロザリーたちは進んでく。
「おい、聞けっ、コラ!」
 一転して、後方に回されたスタンが、後追うように付いて行く。
 繰り返されるやり取りは、草原抜ける風たちに、置いてきぼりをくいながら、影さえ見えぬ街に向かって歩いてく。



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