斯くして世界の支配者が使わした勇者が、魔王住まう地に訪れる。
魔王城の階下に広がる迷宮の魔物たちでは全く歯が立たなかったのか、勇者はいとも簡単に城の最上部に現れた。
側近の姿はなく、魔王がただ独りそこに居た。
勇者はたった一人、人間の身でありながら魔王の居城へと単身乗り込んできたようで、他に仲間らしい者の姿は見えなかった。世界の支配者の話では、勇者と物語の主役の姫が一緒に行動していたはずだが、もう共に行動はしていないのだろうかと、そう仕向けた魔王がそんなことを思う。全く、支配者は行動の読みやすい男だとも――。
人間の青年は、大仰な鎧に光り輝く剣を構えながら、世界の脅威に対して大層な口上を垂れているが、魔王にそんなことは関係ない。
「――道化が」
魔王は心底侮蔑しきった様子で、右腕を広げた。その動きに従うように虚空から身の丈ほどの黒い刀身をした細身の剣が現れる。
勇者が叫びながら、硬質の床を蹴った。
振動。激しく居城が揺れる。
「――っ!」
彼女は薄暗い石造りの天井を見上げた。
ここは与えられた部屋ではない。窓にはガラスではない―おそらく水晶だろう―が嵌めこまれ、出入り口は格子で閉ざされている。勇者が来るからと、執事に連れてこられたのだ。何故か、分からない。囚われの姫でも今更演じろというのか。
再び、激震と共に城全体が鳴った。
「――くっ!」
格子に取り付く。思い切り揺すってみるが、南京錠が空しく音を立てるだけであった。彼女は歯噛みする。魔王の執事の名を呼んでもおそらく現れはくれないだろう。
「…あっ!」
思い立って、彼女は持っていた短剣を取り出す。そして、容赦なく施錠部分に打ち付けた。キンッ、と金属の弾け合う音が響く。何度も、何度も打ち付ける。焦りで上手く叩けない。手に浮く汗で柄を滑らせそうになり、彼女は着ているドレスの端を短剣で切り取って、手と柄が離れないように巻き付け、再び錠の破壊を試みる。
何をこんなに焦る必要があるのか。
振動が続く中、彼女は錠に短剣を振り下ろしながら考える。
勇者に魔王を討ち取らせるわけにはいかない、その気持ちが強く、彼女を突き動かしていた。
――父母の仇だから? いや、違う。今、魔王が敗れれば、世界はまた――
少しずつ、錠が歪み始める。そこへ彼女は集中的に短剣を打ち付ける。
魔王のやり方は許せたものではない。世界破壊、その為に、関係のない、ただ操られていただけの人間がどれほど犠牲になったか知れないのだ。父母もその犠牲のうちに入る。だが、本当にそう仕向けたのは、正体を隠し続けて活動してきた世界の支配者で、そうであるならば、自身の仇敵は魔王ではない。
南京錠が外れ、石畳に落ち音を立てた。
彼女は石牢から飛び出した。向かうはもちろん決戦の場。
やり方だ。やり方さえ変えさせれば良いのだ。
――死なせるわけにはいかない…!
世界には、まだ魔王が必要なのだ。
暗い、牢と同じ石造りの通路を駆け、突き当たったのは下りの螺旋階段。てっきり牢といえば、階層の低い位置にあると思っていたが、そうではなかったらしい。そこしか通る道がないのでそのまま階段を下りて行く。長い螺旋階段を下り、感覚が慣れてくるごとに歩みは早くなり、いつしか駆け下りていた。階段の終わりに扉に行き当たる。扉の握りに体重を乗せて体で押し開く。扉の向こうは、何度も見た廊下だった。直ぐ側に今潜った扉よりも豪勢で大きな扉が聳えている。魔王への謁見場の扉だ。城の振動の元はその奥からであった。
彼女は躊躇なく謁見の間の扉を勢いよく開いた。
「――!?」
突然の闖入者に戦いの手が止まる。
その場にいた一人の男が、以前、魔物の手から取り戻した人の城に飾られていた肖像画の人物とそっくりの女性の出現に声を上げた。
「――姫!?」
魔王への注意を払いながらも、現れた女性へと鎧の青年は駆け出す。
しかし、彼女の視線は、偽の妹を探すこともなく、ホールの奥に黒刃を携えた男へ留まっていた。その男の顔にはいつもの余裕の表情は無く額から血が、人と同じ色で流れていた。それでも、魔王がまだ致命傷を負っていないだろうことに安堵を覚え、表情を緩めた。
魔王はそれを見逃さない。
――機は熟した――
魔王は戦場に現れた人間の女の背後へと空間を渡る。勇者が駆けつく前に、魔王はその血液の伝う腕で彼女を抱き竦めて再び空間の狭間へと、勇者の叫び声がホールに響いたのを空間の奥に聞きながら、消えた。
意識が遠退くような感覚を覚えると同時に、魔王と魔王に抱えられた女性はその部屋へと出現した。一瞥では彼女にはそこがどこの部屋だかは分からなかった。その彼女の体を魔王は離す。自由になっても、彼女は魔王から離れなかった。
「――どうした?」
苦悶とまでは行かずとも、魔王の顔色は悪く、放つ言葉にも力が感じられない。そのことに、彼女は魔王よりも辛そうに眉を寄せた。
「き、傷の手当てを――」
血を拭おうと男の額へと手を伸ばす。しかし、その腕は魔王に掴まれ行く手を阻まれた。
「必要ない。直にあの勇者がここを突き止める」
「ならば逃げれば良いのです」
本気でそう言う人間の女に、魔王は皮肉で返す。「お前が余を仕留める機会、見す見す逃すというか?」
「まだ、そのようなことを…ッ! 貴方という人は一体何を考えて――」
「ジェームス」
魔王は手を離し彼女の言葉を遮って執事を召喚する。少し唖然とした彼女の視界で、魔王の向こうに、直ぐ様、従者が現れたのが見えた。
「は。これに控えて御座います」
一礼した執事に、魔王の凄絶な姿への動揺はない。まるで予めこの土壇場に呼び出されるのを承知していたかのようだ。
「次代の魔王に、世界を破壊させろ――必ず、だ」
魔王は眼を細める。
万が一にでも勇者を返り討つことが成れば、このような命を従者に下すこともなかった。しかし、歴史の中に語られる魔王は、どれもこれもが似た者ばかりであった。成したい事は違っていたが、自分はその延長線上にしか居なかったということだろう。今こうして、世界の歪にはなれず終わろうとしている自身が、それを証明していた。
だが、もしも魔王の存在を根底から覆すような、そんな者が現れればどうだろうか? これまでのように、魔族の中で非道と残虐が常の世で生きた魔王ではなく、もっとそう――でたらめな。
それに、お誂え向きの従者が居たことは幸運だった。
「承知いたしました」
執事が深々と首を垂れる。この執事、目の前では忠実な物腰を見せているが、どうにも素の性格が自身に都合のいいように出来ている。来世を見ること叶わないのが、少し残念だ。
「次代?」
彼女が訊くと執事は即座に答えた。「ゴーマ様の魂は次の魔王へと転生されるのでございます」
「生まれ変わる……?」
彼女は魔王を見上げる。視線に入る眉間に先より刻まれている深い皺は、表れた苦痛か。
「どうやってそのようなことが――?」
「そういうものだ、としか言えぬ。余とて先の魔王の生まれ変わりであるから魔王だったに過ぎん」
「いつ、生まれ変わるのですか?」
「そんなものは誰にも分からぬ」
身も蓋もない言い方に、彼女は不安げな顔をさせた。それを見た魔王の薄い唇が笑みを持つ。
「だが――」
「?」
魔王の切った言葉に、彼女は先を促すような表情を見せる。
「依代が在れば、おそらくは」
「よりしろ…?」
意味が分からない様子で、彼女は鸚鵡返しに尋ねた。
「余の命と引き換えの、呪いの話だ」
「の…」
今度は絶句する。彼女の目は見開かれていた。
「種を産み出す者へ、全ての魔力を使い魔王の生まれ変わりを生むようにと、呪いを掛けるのだ」
「種を産み出す者への…呪い…」彼女は噛み締めるようにして呟く。
「それは、ひ――人にでも…?」
彼女の言わんとしたことを、魔王は理解する。
「無論だ」
魔王の返答に、彼女の目に決意の光が宿る。
「――その呪いを私に」
「次代の魔王を産むと言うか?」
「ええ」
はっきりと、彼女は頷いた。
「同族を裏切ることになるのを承知して言っておるか?」
「それ以前に、世界が私達を裏切っているのです」
真っ直ぐに魔王の眼を見つめて彼女は言った。
「それに――」彼女は、悲しそうに強がった微笑みを見せる。「そうすれば、貴方の命を私が奪ったことにもなります」
「仇も討てたと、そう言うか」
「そうです」と、彼女は即答した。
魔王は内心ほくそ笑みながら、目の前の人間の女性へと手を伸ばす。
分類から外れた人間の女。それから産み落とされる魔王、どのような者に成るのか。
翳された手の平から魔王の魔力が染み出しているのが人の目にもわかる。魔王の魔力は黒い靄となり彼女へと纏わり付いて肌から滲み込んでいっている、そんな感じだが、彼女には何の感覚も感じられなかった。ある程度までいくと、靄が彼女の体には入って行かずに拡散する。
今はまだ、人が耐えられるだけの魔力しか引き継げない。時が経てば、生まれ変わった器に魔力が集まるだろうと魔王が言った。
魔王は口端を上げていた。彼女は初めて間近でじっくりと魔王の顔を見ていたことに気付く。ここに来てなお見る者全てを射竦めるような力を持った双眸を見つめるが、もはや彼女に恐怖は起こらなかった。
その印象を最後に、彼女の目の前で魔王の体は崩れて消えた。
大魔王の最期。
それを見届けたのは、勇者でも世界の支配者でもなく、世界の鎖から逃れた人間の女と魔王の下僕だった。
崩れた体の向こうに、扉が開かれたのが見えた。そこに現れる鎧を付けた人影。人影が人間の側に立つ魔物に向かい叫ぶ。「魔王の残党か!」
「――逃げて」と、人影に悟られぬように、彼女は滅びた魔王の執事に口早に囁く。
「それでは後日改めましてお仕えに参ります…」
小声だけで礼はせず、執事は姿を消した。
魔王を追い現れた人影――勇者は彼女の元へ走り寄る。「逃がしたか」と悔やんだ様子を見せ、それから彼女へと向き直る。いつ何時魔物が現れるか分からないというのに、剣を鞘へ納めて恭しく傅いた。
「姫、ご無事で何よりです」
戦場に現れた時の彼女の様子など頭から消えているのか、最初から気付いていなかったのか、勇者の態度はあくまでも真摯であった。だが滑稽だ。
「貴方の働きで魔王は滅びました――勇者様。きっと助けに来てくださると信じておりました」
淀みなく口から科白が出たことに内心驚く。
彼女は救われた姫君を演じた。
張り付かせた彼女の微笑みに勇者が頬を微かに染めたことも、彼女は白々さを覚えるだけであった。
そうして彼女はひっそりと、しかし完全に、人間に反旗を返す。
人の世へと戻り、一度は崩壊した王政を建て直し、婿を取った。世界に平和を取り戻した勇者ではない。すでに彼女には妹など居ないことになっていた。
懐妊を知ると、彼女は行方知れずとなった。自ら望んで姿を眩ました。よもや魔王の生まれ変わりであろう赤子を人間の城で産めるわけがなかった。自分はこの世界に生き、生を謳歌するもの全ての敵を再び世に現そうとしているのだ。
姿を消すのは簡単だった。なにせこちらには、空間を渡ることの出来る魔族が居るのだから。
王妃――実質女王の立場である――が失踪したことで捜索部隊が編成されるだろうか、と王城から離れた地で考えたが、彼女が予想していたような騒動にはならなかった。
彼女が、その土地の産婆の元で出産を終えた頃、王妃は身篭ったまま病死したと噂に聞いた。
混乱を避けるための家臣か新王の策か、それとも世界の仕組みに携わる者の操作なのか、これまでの王家の直系の血筋は絶えたことになり、王族は丸々入れ替わった。今後、世継ぎの問題もあるだろう。
だが知ったことかと彼女は噂から耳を閉ざした。探しに来る者が居ないことを確信し、安心したほどである。
ひっそりと山間の土地で生活を送る。滅んだ魔王の元執事がどこからともなく生活費を調達してくるので金には困らなかった。大魔王の遺産か何かであろうか――よく考えはしていないけれど。
王家を捨てたとはいえ、彼女は亡き両親を悼む気持ちだけは強く、父王の名を子に与えた。
魔王の生まれ変わりに人の王と同じ名を付ける。彼女のちょっとした性質の悪い悪戯だった。
「父様が13世だったから、お前は14世ね」生まれて間もない息子を抱き上げ、微笑みかける。
「立派な御名前でございますな」側に控えた執事が言った。
彼女はふと、この子の見た目は人間と変わらないようだけれど本当に魔王の生まれ変わりなのか、そんな疑問を口にした。黄金の瞳が彼女を見つめている、彼女にはこの上なく愛しい。髪はまだ細く色は薄い。何よりも耳が丸い、記憶の中の魔王のそれは人には在りえない形質だったのに、腕の中の子どもは人間とまったく変わらないように見えた。
「ご成長される間に魔王の魔力の影響で、相応のお姿へと変わってゆかれるでしょうな」という、実にあっさりとした返事が返された。
そんなものなのか、と彼女は納得した。元々魔族の生態などよく知らないし、調べようもない。それに魔王だけが特別なのかもしれない。
それに考えずとも、彼女には関係のないことではないか。我が子へは惜しみない愛情を注ぐだけである。そうして育てるのは、生き物であれば何だってきっと同じだろう。
しかし、4年も経たぬうちに彼女の思いも命も断ち切られることになる。
病から床に臥せり、彼女はやっとして住み慣れた屋の天井を見つめていた。
――あの時、命尽きようという時、あの者は何故笑っていられたのだろう。
かつての大魔王に思いを馳せる。顔を動かすと、我が子が執事を何やらと困らせていた。
生まれ変わるための依代を手早く手に入れられたからであろうか?
実は、全てはあの者の思う通りに事が運んでいたのだろうか?
そして、自分はその目論見にまんまと掛かってしまったのか?
あの日、次代の魔王をこの世に現す使命を背負って以来、何度も自問を繰り返してきたが答えは一向に出ない。
自分が、一生子を宿すこともなければ、魔王はこの世界へ出現出来なかっただろうか。いや、きっと遠い未来、いつか分からない人間の女から呪いが抜け切ってしまった頃に、生まれ変わっていただろう。魔王の転生は止めることの出来ずに永遠に流転していくのだろう。
それでも、魔王を産み落とした。世界がこのままで良いはずが無いとその思いだけでやってきたのだ。それでもどこか翳りはあった、心のどこかに。ずっと煌びやかな宮殿で何も知らずにいた方が幸せだったのかも知れない。勇者に救われ、魔王を憎み――
魔王を憎むこと、今となっては我が子を憎むことになる。
そんなこと出来るわけがないではないか、私は母親だ――……ああ…何を考えているのだろう、何を……――
思考が纏まらぬ頭の中で、幼い我が子をしっかりと目に焼き付ける。その子の耳は少しずつ、人のそれとは違った形へと変わりつつあった。自然と、顔に微笑みが零れる。彼女は瞳を閉じ―――
そして、終わった。
仕えていた人間の生命が尽きたことに気付き、新しい主をあやしていた執事が顔を上げた。
じっと体温の無くなってしまったそれを見つめる。
人から見れば全く表情の分からぬその魔物は、彼なりに弔いの意をその顔色に示していた。
これからは今までのようにこの場所には住めないだろう。新しい主人を連れてどこかへ行かなければならない。
まだ死の意味も分からぬ幼児に、彼の母親の死を告げて、どこかへしばらく身を潜めましょうと、魔王の執事は提案した。
どうしてかと、尋ねてくるが「それが坊ちゃまのためだからでございます」と言うとあっさりと幼児は納得した。いや、良く分かっていないのだろう。分かる年でもない。
去る前に人間の骸と埋葬した。墓標は立てなかった。
これからどうしたものか。魔王の執事として、先代の命令を全うするため努めるのが自分の仕事であるのは分かっている。
――そうは言われましてもなぁ……
ゴーマ以上の魔王などどうして育てられようものか。世界を半分壊した魔王でさえ、支配者の使わした人間に敗れたのだ。
――ゴーマ様も、いや全く無理難題をおっしゃられたものですな……
何より、世界全部を破壊してしまっては、大好きな女性たちも居なくなってしまうではないか。それは困る。いや、困るどころではない、生きがいが無くなってしまう。
この辺りで、実質的な魔王の権威と脅威が消えたことで、執事の元よりのいい加減な性格が気の緩みを見せ始めていた。かといって放棄することは出来ず、それなりに育てればなんとかなりますかな? などと実に楽観的な考えを起こす。まさか、そのことを前の主に予期されていたとは思いも寄らないで、執事は幼い主の手を引いてその地から何処かへと姿を消した。
一人の男が、森の中で何かを探して歩いている。
盛り上がった肩から掛けた大仰な鎧と腰には長剣。顔には皺が浮き上がっている。引き締まった腕には、顔の皺よりも深いいくつもの傷があった。
男の視界の隅に、留まるものがある。男は駆け出しそれに向かって声を上げた。
「お前がこの界隈に現れるという魔物か」
声が掛けられ、形だけは人の影をした小柄のそれが振り返る。黒い服に浅黒い肌、黄金の髪からは耳が覗いている。特筆すべきはその耳で、人とは確実に異なる形で尖っている。まだ子どもだ。人間ならば12,3の年の頃というところか。しかし魔物であるならば、その外見は人間のそれと計ることは出来ない。
魔物は自分に向かい、剣を構えた戦士の風体をした壮年の人間の男を、一度頭からつま先まで見流して、再びその顔を見た。戦士の物腰はかなり熟達したものであったが、子どもの魔物には見たことのないヤツだということしか分からない。
「魔物? その辺の奴らと一緒にするな、人間。余は魔王だぞ」
生意気に腕を組んで見せて、ケラケラと子どもが笑う。声も外見通りの子どものそれだった。言葉遣いだけがやけに尊大だが、子どもが無理をしてそんな口調をしているように聞こえない辺り、普段からこのような話し方をしているのだろう。
「魔王だと?」
意外な言葉に男は驚く。自分はこの近くの村で、森の中に魔物が出るようだから退治してくれと依頼されただけであったのだ。しかし魔王とは…と、男は訝しがる。流石に信じられない。自分の記憶では、魔王は確かに滅んだはずだ。
「そうだ。じきに大魔王となり世界を支配するのだ。そうだな、ジェームス!」
子どもがここには居ない執事の名前を呼ぶ。すると、空間を越えて何処かにいた魔物が姿を現し幼き主に一礼する。「坊ちゃまのおっしゃる通りでございますぞ」
ふいに現れた魔物が覚えのある姿をしていたために、人間の男の目が大きく開かれる。
「…ゴーマの眷属!?」
「は? ややッ!? これはマズイですぞ、坊ちゃま、この人間は……」執事が途端に慌て出す。
「まさか、お前はゴーマの生まれ変わりなのかッ?」
「何だ、知っているのではないか」執事とは違い、大魔王の生まれ変わりの子どもはきょとんとして答えた。
「倒しても生まれ変わり復活してしまうということか――ポラック様の言われた通りだ……」
「何の話だ?」
眉を顰める子どもの言葉を無視して武装をした人間は、まさかこんなに早く生まれ変わっているとはなどと呟いている。
「今のうちですぞ、坊ちゃま。お逃げくだされ!」と執事は主に言い立てる。
しかし、主は執事の言葉に立腹する。「人間ごときに逃げ出せというのかお前は!」
「ですが、坊ちゃま。この者は大勇……」
弱りきった執事がなおも食い下がるが、そこで人間が行動を起こす。見れば、妙なものを彼らに向けて構えている。
「なんだ?」幼い魔王が疑問符を浮かべる。
「倒せぬのなら永遠に封じるのみ――」
声が飛び、瞬間的に視界が暗転する。続いて衝撃。静寂。
闇に呻き声が聞こえる。自分の声だということに気付いて子どもは声を殺す。頭を振って、意識をしっかりと持つ。
「…何が起こったのだ…?」
辺りは闇。ここはどこだ?
「あいたたたた……」とすぐ側で耳に馴染んだ執事の声が情けなく聞こえた。下僕の声に少しばかり安堵する。
「ジェームス」
「おお、坊ちゃま。ご無事ですかな? お声しか聞こえませぬが」
暢気な執事である。いや、従者として先ず主を気遣うのは当然か。
「明かりが要るな」
魔王がまだ小さな手の平に炎を生み出す。しかし、すぐにその炎は肌を打つような音を立てて弾けて消えた。
「?」
幼い魔王は突然の音と、魔力で作られた炎が自らの意思に反して消えたことに驚く。それからもう一度炎を作る……が、それもまた同じように弾け飛ぶ。今まで見たことのない現象だ。
「どうしましたかな? 坊ちゃま?」
暗闇から掛けられた声に、苛立ち唸る。なぜか魔法が思い通りにならない。
「もう良い! ジェームス、お前がやってみろ! 明かりを寄越せ!!」
魔王が怒鳴る。やけに声が響いた。いや、反響している。
「はあ……?」
互いにワケが分からぬままに、今度は執事が明かりを作る。しかしこれは消えたりはしなかった。
「どこでしょうかな? ここは」
「なんだ、お前にも分からんのか?」
「どうやら、狭い場所のようですが……」
「それは余にも分かっておる」
明かりが出来たことで、辺りの様子が伺えた。閉鎖的な至極狭い息の詰まりそうな空間。しかし明確にどこなのかは分からない。
見回すとどこにも角は無く、円形のホールのような作りをしている。見上げると、明かりが届いていないため闇が広がっている。
「もうちょっと明るくならんのか?」上の方がどうなっているのか知りたくて、魔王はごちた。
執事が明かりを上へ飛ばす。光力はこれ以上あげられないようだった。
照らされた彼らの上方は、窄まった作りになっていた。小さな円状の天井が照らされて、確実にここが閉鎖空間であることが知られる。そして自分達の居る所はその底辺であろうことも。
そういえば、先ほどの人間はどこだ? いや、それよりもなんと言っていた?
倒せぬのなら――
『――聞こえるか? 魔王ゴーマの生まれ変わり』
ふいに声が聞こえる。何故か遠く篭ったような声。人間の戦士風の男の声だ。
『お前は今、封印された。二度とそこから出ることは無い。ポラック様の作られた封印の壷からは――』
「封印だと?」
子どもの声は聞こえているのかいないのか、男の声は続けられる。
『お前の魔力が完全に戻らぬうちに見つけられたのは幸いだったな』
ほとんど独白に近い言葉だった。
「魔王の余を封印だと!? ――そんなもの破ってくれる!!」
叫ぶと同時に魔王は今あるありったけの魔力を込めて、封印の器に向かって攻撃魔法をぶつけようと両手を掲げるが、手の平に集まった魔力は空しく霧散した。
「くそっ! またか!? どうなっておるのだ!!」
「ははあ……ワタクシ分かりましてございますぞ、坊ちゃま。どうやらこの中…壷ということですが…、ここでは坊ちゃまの魔法は無力化されてしまうようですな」
自分の魔法が無力化されないのは、主の魔力とは質が違っているせいだろうと、執事は付け加えた。自分が一緒に封印されたのは手違いだと、個人的にはここから自分だけでも出して欲しいとも言いたかったが、それは言わない。
「ではどうすれば、ここから出られるというのだ」
「そうですなぁ……まだ、坊ちゃまは大魔王としての魔力を全てお持ちではございませんし、しばらく待ってこの壷が打ち消し切れぬほどの魔力が溜まれば、あるいは……」
「それまで待てと言うのか!?」
「はあ、それだけしか、今のところは……」執事も困りきった様子で言った。
魔王は壷の底を地団太して踏みつけて、子ども特有の癇癪を起こして喚く。宥めることもせず、執事も呆けて上を見上げてた。先ほどから揺れているのは、彼らの入った壷を持ったあの男がどこかに移動しているからだろう。どこに行くのか、と意味がないことと分かりつつ考える。
ひとしきり暴れ疲れたのか、幼い魔王は座り込んで膨れている。
「ジェームス」
「はい、なんでしょうかな?」
呼ばれて顔を下げる。
「さっきの男はなんなのだ? 魔王を封印するようなものを人間は誰でも持っているというのか?」
落ち着いて、やっと魔王は男の正体を気に掛けた。
「あの者は……勇者ポプキンスでございます」
「勇者?」魔王は鸚鵡返しに尋ねた。
「はい。坊ちゃまの前の大魔王、ゴーマ様を討った人間の大勇者でございます」
「あいつが…? 何故それを早く言わなかったのだ!」
「いや、ワタクシ、逃げましょうと申し上げましたぞ?」
「口答えをするな! それに魔王が勇者から逃げてどうする!!」
「はあ、しかし運の無かったことですな……あの勇者に出くわすとは……」
「黙れ黙れ! 勇者と知っておればだなあ……っ!」
魔王が再び暴れる壷を持って、その中の騒動を他所に勇者が向かった先はどこかの山であった。
眼下には森が広がり、ともすれば人など決して寄り付かないだろう山の最頂近い岩の窪み。しっかりと固定し、置き去りにした。本当ならば存在そのものを抹消させてやりたいのだが、倒したところで生まれ変わられるのでは、いつまで経っても鼬ごっこだ。
そうして、世界の支配者が勇者による魔王復活劇を思いつくまで三百年の時が要される。大魔王に直接接触せず、世界の裏側を気付かれることも無いと、支配者は高を括っていた。
かつての勇者もとうに亡くなり、新しい勇者制度が作られて、その中の一人が大勇者と選ばれる。
魔王といえばその魔力は分断され配されて、魔王はかつての人の姿すら取れなくなり、復活はもはや絶望的であった。
しかし、突如として復活の機会は訪れる。何故か、一人の人間の女によって壷の口が開けられたのだ。
完全なる復活までの依代と影を乗っ取るが、失敗に終わる。
封印の器に戻ったところで、今までにない衝撃に襲われる。何度も何度も岩壁に打ち付けられていた振動だったと気付いたのは後でであった。どうやら、壷ごと蹴り飛ばされたらしい。
――なんて女だ。
自分の暴言がその事態を招いたというのに、魔王は毒付く。
女。人間の、女。そう考えて、ん? と引っかかりを感じる。
うんと昔に、人間の女が居なかったか?
傍に、物凄く傍で――誰だったか? いや、本当にそんな者が居たか?
自分には判断が付かず、そのことを、女性を久々に拝めて浮かれている執事に問い掛けようとして、止めた。
魔王に、そんなことがあるはずがない。どうかしている。人間に懐かしさを覚えるなど――
「おい、ジェームス、浮かれるな。余の復活が成らなかったのだぞ!」
「はっ、そうでしたな!! これはワタクシとしたことが……しかし、きっと今日のことは近いうちに坊ちゃまの復活が果たされる前兆ですぞ……ああ、しかし勿体無いことを……」
ぶつくさと、あの女性に取り憑けていればと執事が漏らす。
「あのまま乗っ取れたとしても、あの女は死ぬ気満々だった出はないか。どのみち同じ結果になっておったわ」
そうなれば、蹴り落とされることだけはなかったかも知れないが。
「そうですな、気の強い女性もよろしいですが、やはり従順で大人しい女性もそれはそれで……」
「…なんの話をしておるのだ?」
噛み合っていない会話をしながら、魔王と執事は、壷の中。
あと三年。
今か今かと復活の時を待つことになる。
そして、三百年の時を越えて――
―――滅んだ魔王の望みは叶えられた。