「よくも、ここまでやってくれたものだな」
全く静かな世界。雷鳴さえも怯み、轟くことのないほどの闇の世界で、男は唯一この地に建てられた建築物の家主に向かいうんざりとした様子で言い放った。
言われた方のシルエットは、闇と同化している。何も答えずに、自分に向けて発せられた言葉を聞いているのみであった。
返事がないことを気に掛けることなく、男は自分の髭を指で弄りながら続ける。
「確かに私は、貴様に、人間が恐怖し立ち向かえぬ存在であれと命じたが――貴様は、行き過ぎだ」
苛立ちから、男は真紅のコートを翻しながらその場を歩き回った。
「人間全てが絶望しきってしまうまでやれと言っておらん」
怒鳴り散らしたいのを抑えているようだが、怒りで男の声はやや震えていた。
顔を醜く歪ませ、皺がますます増えた顔で男は声を潜めて言う。「まったく――優秀過ぎるのも、問題だな」
嘆息して、男は一人被りを振る。
「――とにかく、だ」
なにやら結論を出したらしい男が再び一人で話し続ける。
「そろそろ人間にも動いて貰わんとな。そうだ、人間どもにまだ、かろうじて正義を信じる希望があるうちに」
謳うように男が語る。
「そしてお前はその正義によって討たれる、それだけのために居ることを忘れるな」
冷酷な眼差しで、闇を睨み付ける。
闇から気配の変化はない。
「――おお、そろそろ戻らんと……」
何かを思い出したように男が急に慌て始めた。
「いいか、しばらくは大人しくしていろ。他の魔物どもにもそう命じておけ」
言うが早いか男は立っていた場所に空間の歪みを生じさせて、その中へと姿を消した。
闇は最後まで言葉を返さなかった。
<錆びた鎖、一片のしみ>
彼女にとってそれは、世界の脅威である以前に父と母の仇であった。
間接的であったが、彼女の両親が命を失った原因は間違いなくそいつだ。
平和であった彼女の国に突如魔族の軍が空より降り立ち、城は占拠され、国王夫妻は国民の前で処刑された。世界を支配し魔族のための世界へと作り変えるために現れた魔王の軍勢の手によってであった。魔族にも人の国と同じように軍隊があるらしい。彼女の国を落としたのは魔王の配下の一将軍だか何かであろう。魔王自身は攻め入っては来なかった。
国民に対して取られた人質の彼女は第一王女、王と王妃の間には女子しか生まれなかったため代々王室に仕えている貴族の息子を婿に迎える、その婚礼の儀も近かった、そんな身であった。しかし、それもかつてのこと。今や彼女は、自由の利かない捕虜の身である。捕らえられたこの場所は勝手知った父王の城、彼女の生まれながらに住まった人の城の一室である。
唯一、良かったことはといえば、彼女の妹が従者と共に城より遠く離れた別荘へと赴いていたことだった。人質である自分とて、いつ魔物どもの気紛れで命を奪われるか分からない。幼い、まだ少女の妹が、この地に居らず本当に良かったと彼女は胸を撫で下ろす。今となっては妹のことだけが気がかりで、自分の身など省みずに彼女は妹姫の身ばかりを案じていた。
その気を少しでも紛らわせることが出来るのならと、蜂蜜色の髪を手で弄ぶ。そうやって彼女は、捕らえられた日より今を過ごしていた。
魔王軍の力は強大で、ことごとく他の地は壊滅させられた。王国の軍隊がなくなった今では、僅かながらの反抗も出来ずに、人間達はただ世界が崩壊していく様を絶望の中で見つめていくしかなかった。
世界は蹂躙された。
死の大地が地表を覆うかと思われた頃、勇者と呼ばれる人間が現れた。
少女を連れた人間の男がこの城に向かい快進撃を続けていると、人間の姫の世話を充てられた魔物が人質にそんなことを話して聞かせた。彼女の目の奥が微かに光る。
人間の、勇者と少女。その少女はきっと妹だ。妹、第二王女。彼女と同じく蜂蜜色の髪を持ち、誰からも多大なる愛を受けるであろうと思われる大きな紅い瞳をさせた愛らしい姫。妹は、現れた勇者とともに世界を混乱に陥れた災厄を祓おうとしている。 そして、今この城へと向かっているのは、囚われた姉を救い出すためだろう。
何故か、彼女には確信できた。そして見たこともない勇者へと思いを馳せると、不思議と胸が高鳴った。
しかし、その夢想は、響いた金属の塊と壁との衝突音に打ち消された。
息を呑んで、彼女は表情を固くさせる。
扉を破る勢いで開いたのは、魔物。体躯は大きく、人には大きすぎる扉もその魔物には身を屈めなければ通ることは難しい。
怯んではいけない。彼女は、殺されることになったとしても、せめて人の姫としての誇りは守りたくて、無遠慮な侵入者を鋭く見る。その目が気に入らないのか、魔物は彼女へと低く唸ってみせた。世話役の魔物は入ってきた魔物へと傅いている。
「おお、いけませんな。女性の部屋へ入るのに、その態度は感心出来ませぬぞ」
暢気な声が聞こえた。厳めしい外見の魔物にしては、声は異質で違和感を覚えた。すると、その大柄な魔物の後ろから奇妙なシルエットの魔物が姿を見せた。猫背というよりも、鉤のように前のめりに曲がった体はしっかりとしていて、細い足で支えきれているのが不思議な程だ。その胴の上には両側から角を張り出させた卵を寝かせたような形の頭が突き出してくっついている。やけにこざっぱりとした燕尾服を着ているのが、不釣合いのようで合っている。
燕尾服は彼女を見ると深々と頭を下げた。
「いやはや、大変失礼致しましたな。さぞ驚かれたことかと思うと、ワタクシはどうすれば良いのか……」
胸を痛める、というような身振りを見せる燕尾服。確かに驚いた。だがそれは、粗雑な振る舞いをするものだと思っていた魔物の中に、彼のような物腰の者が居たことにである。
ふう、と燕尾服の魔物は一息付いた。随分と芝居掛かった口調と身振りに、相手の反応がなかったせいかも知れない。
「申し遅れましたが、ワタクシは大魔王ゴーマ様に仕える執事の、ジェームスと申します」
大魔王という言葉に、彼女の顔色が変わった。父母と国の仇。燕尾服に対する警戒が急激に高まる。
「ゴーマ様のご命令により、お連れに参りまして御座います」
「連れて? 一体どこへ? 何のためにです?」
突き放したように、彼女は毅然とした態度を取る。
「行き先は魔王城でございますが…」卵型の頭が、おどけるように斜めに傾く。「理由の方は、ワタクシは命令を仰せ付かっただけでございますので、解りかねますな」
彼女は少し迷う。
いや、迷ったところで捕虜の自分には選択権などないのは分かっていたが、もしこの城を離れた時に丁度勇者が、なによりも妹姫がやってきて自分が居なければどう思うか。勇者はきっとこの城を人の手に返してくれよう、だが、その後に城を治める者をどうするというのだ。離れるわけには行かない。いつ戻れるかも分からないのだ。いや、二度とこの城へは戻れないかも知れないのだ。その可能性の方が高い。
黙ってしまった彼女を、執事は急き立てたりはしない。この執事相手ならば、魔王の命令への拒絶も叶いそうなものであった。
しかし、とも思う。
彼女は自身の父母の仇の顔すら知らないと思うと無性に腹立たしい。直接的に手を下したわけではないにしろ、仇は仇だ。自らの手で討ちたいとすら思う。これは仇の懐へと飛び込む機会だ。一介の人間の女ごときに魔王に一矢を報いることなど出来るとは思えなくとも、それでも、出来ることはしてやりたい。
愛国心よりも恨みの方がほんの少しだけ勝り、彼女は決断する。魔王の命令だからではなく、自らの意思で魔王城へ行くのだ。自分がどうにかなったとしても、あとのことは妹に任せられる。
彼女は一つ、深呼吸した。
「わかりました。従いましょう」
これが彼女に繋がる鎖に僅かな錆を作った最初のきっかけであった。
世界のどこかにあると言われた魔王城。現在、何者よりも世界へ影響を及ぼしている存在の住まう場というのに、誰もはっきりとした位置を知らないという矛盾した場所に、今、彼女は居る。
黒もしくはダークグレイに囲まれた世界。華やかな色など皆無である。明かりは魔法で作られているのか、火の光ではなく、とても冷たい色を放っている。その城の廊下を執事と名乗った魔物に先導されて歩いていた。嵌め込まれた窓の外は厚い暗雲、視界を遮る霧、命を圧迫するような瘴気しかない。ここは本当に世界の何処かなのだろうか、もしや異界か。
「こちらでございますぞ」
いくつかの扉を通り過ごして案内された一つの扉。その部屋は、彼女が数刻前まで過ごしていた城のどの部屋よりも豪華な作りをしていた。
煌びやかに彩られたわけではないというのに、目を引く調度品には精巧な細工が施されている。
見回すが、部屋の入口に立つ彼女と執事以外に気配はない。
「――?」
彼女は、疑問の色を顔へ表したまま、部屋の内部から隣の執事へと視線を移す。
「この部屋へご案内するように、仰せ付かってございます」と執事は一礼した。「それでは何か御用がございましたら、このジェームスをお呼び下されば――」
「ま、待ってください。捕虜の部屋というわりには…その、随分と……」
過ぎた待遇であった。これでは賓客扱いではないか。元々捕らえられていた城でも何故か私室に、閉じ込められてはいたものの、手酷い扱いを受けたことはなかったことを今更ながらに思い出す。
「お気に召しませんかな? ああ、やはり婦人をお招きするのにこの内装では若干――」
「…いえ、そうではなくて……」
ずれた感覚で受け答えをする執事に、彼女は困る。深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「この待遇は、捕虜たる私には不相応です」
きっぱりと言い放つ。表情の判り辛い執事から呆気に取られる気配が伝わってきた。
「いやいや、貴女様はお客様で、捕虜などではございませんぞ」
「何故――と、理由は知らないのでしたね」
溜息をついて、肩を落とす。しかし、直ぐにハッとして顔を上げ執事を見る。
「客ということならば、魔王に会うことも出来ますね?」
「いや、ええ、はあ……。お取次ぎでしたら、ワタクシが致しますが――」
やはり、やや呆気に取られた様子のままで執事はそう答えた。
早急にお願いします、という彼女の言葉に執事が姿を消して、随分と待たされた後に通された部屋の扉が叩かれた。
部屋から出ると、執事が頭を下げたままの姿で居た。
「お会いになられるようでございます」
その言葉に息を飲む。仇との対面、否応なしに心音が早まる。
「案内を、お願いします」
歩き出した魔物の後を、彼女は後ろ手に注意深く付いて行った。
魔王へと謁するための広大なホール。そこも魔王城の他の場所と同じく、冷たい光が心許無げに弱い照明を落としている暗闇に近い場所だった。
彼女は謁見の間へと一人通された。魔王の玉座までは随分と遠い。魔王の執事は扉までの案内で、中には入ってこなかった。周りにもなぜか、他の魔物の影すらない。彼女は歩き出す。
暗い照明の中、徐々にはっきりとしてくる魔王の玉座の輪郭をしっかりと見据える。歩みは止めない。
そこに居たのは、さして人と変わらぬ形をした、体格から察するに男。暗くて顔はよく見えないが、角が生えているわけでもなし、耳まで口が裂けているわけでもないようだった。魔王というのだから、もっとおどろおどろしい姿形をしていると思っていた彼女は一瞬拍子抜けする。
本当に魔王かとも思うほどだったが、男の顔がはっきりと見え、目が合わさったところでその疑いは微塵も無くなった。
部屋の闇に同化するような黒の衣服は、豪華に飾り立てられるのではなく、細部の縫い取りだけで実にシンプルだが、男の壮年ほどの端正な外見と雰囲気にピッタリと当て嵌まっている。後ろへと撫で付けた髪は黄金だが、光の加減から金灰色にも見える。そして、見る者を視線だけで射竦めるほどの髪と同じ黄金の双眸。
そこからは形容しがたい圧力があった。明確には分からない、しかし確実な重圧。
当の魔王には、さして威圧しているつもりは無いのだろう、口元には薄い笑みが浮かんでいる。
「――用件はなんだ」
魔王への面会を申し出た人間の女が体を震わせた。
低い、低い声。発せられた言葉は、普通の会話でもありそうなものだというのに、その声は聞く者の底から恐怖心を掻き立てるものすら感じさせる。
歯の根が合わず鳴りそうになるのを、必死に押さえるため、彼女は手の平に力を入れる。
「何を持っている」
息の詰まるような感覚に襲われる。いや、実際に呼吸が上手く出来ていないようだった。彼女はドレスの影に持つ物を握り直すも、相手に見透かされているのでは、意味が無いとどこかで声が聞こえた気がした。
彼女が手に取っている物、それは、この城で通された部屋から持ってきた小さな燭台だった。これくらいしか、武器に使えそうだと思わなかったのだ。
破れかぶれに、彼女は魔王へ向かい駆け出した。
今、彼女にあるのは恐怖心と憎悪、その中での混乱だった。それだけで、世界の脅威へと向かっていた。
玉座に掛けた魔王の、その顔は口端を上げたままで、眼は人間に対する興味を示しているとも取れる色をしている。
「ッィやァッ!」
気合か、それとも自身を奮い立たせるためか、声を張り上げて仇相手に燭台を振りかざす。
しかし振り下ろした腕は、いともあっさりと魔王に捻り上げられてしまう。彼女の腕を絡め取ったまま魔王は立ち上がる。
「――ヒッ、くふぅッ……」
妙な角度で腕を捻られた痛みで、声とも空気ともつかない音が彼女の口から漏れた。腕が痺れて、その先に持つ燭台を簡単に離してしまう。
「余に刃を向けるか」
「か――仇…おと、父さ、ま、と…」
痛みに顔色を無くしても、途切れ途切れになった呼吸のように彼女は言う。
「勇者でもない、人間が――余の命を取ろうと言うか……」
魔王には怒った様子が見えない。ずっと面白そうなままだ。
その魔王に腕を捩じ上げられた人間の女は死を覚悟した。
だが、その矢先に腕を解放される。慌てて彼女は魔王から離れた。
後ろへと下がりながら、魔王へと人間の女は少しの疑問と執念を思わせる視線を向けていた。
そんな人間の女を、魔王は眼を細めて眺めてから、ふいに何かを投げて寄越した。
硬い音がホールに響き、女は体を竦める。
痺れた腕を押さえて這うように後退する彼女の足元に投げられたのは、一本の、女にも扱えそうな細身の鞘に納まった短剣だった。
「人間の王族の、しかも女ならば、持つのにも苦労しそうなものだろうが――それでも、こんなものよりかは使えることに間違いはない」
魔王は、燭台をつま先で転がす。蔑まれていることが解った。魔王の口元に浮かんでいる笑みに厭悪を抱く。
「自害するならば、それも構わん。この場で、見届けてやっても良いぞ」
「誰が……自害などッ」
痛みに耐えて、彼女は魔王を睨んだ。しかし、魔王は歯牙にもかけない。
「ジェームス」
魔王は側近の名を呼ぶ。召喚された魔物が現れて跪いた。
「それを連れて行け」
先ほどまでからかっていた人間の女を目だけで指して「それから」と付け加える。
「せいぜい、その人間が動きやすいように手配しておけ」
魔王の命令を聞いて、彼女は目が眩むほどの怒りを覚える。完全に、遊ばれている。これは彼女が屈辱を覚えることを承知の上での命令だ。それが分かり、彼女はさらに悔しく思う。
「――は? あ、いえ、畏まりましてございます」
要領を得ないと言ったままの執事が頭を垂れる。
「下がれ」
執事は未だ彼の主人を睨む人間の女性を連れて、主の命令を遂行するために姿を消した。
彼女は椅子に座り、痺れはなくなったもののまだ痛みの引かない腕を擦っていた。
目の前の低いテーブルの上に置かれた短剣を見つめながら、また頭では自分の突拍子のない行動を恥じる。
どうしてあのように取り乱してしまったのか。
魔王から、自分をこの城へ連れてきた目的さえ聞き出せなかった。
人の精神をどうにかしてしまいそうな、あの黄金の双眸のせいだ、と彼女はなんとなく思う。
じわじわと蝕むというよりも、静かに、だが急に目の前に現れあっという間に乗っ取ってしまうような、そんなわけの分からない感覚だったと、魔王の瞳を思い出し、彼女は身震いした。
――その人間が動きやすいように――
仇が部下に命じた言葉が蘇る。
魔王に仇成すことが出来るかどうか、それは分からないが――自由に動けるようにしたことを、後悔させることくらいは出来るかも知れない、と彼女はこの城に唯一灯る光と同じ色を放つ短剣を手に取った。
「勇者に宛がうはずの女を浚うとは、どういうつもりだ!!」
人間の女を招いてから数日して、魔王の居城へとやってきたその男は開口一番魔王に問い詰めた。
「何か問題でもあるか?」
つい今しがた謁見の間へ現れた魔王は、部下達に接するのと同じ態度と余裕を表した笑みを浮かべて、男――世界の支配者に答えた。
支配者は苛立ちながらホールを歩き回り、魔王は玉座に悠然と構えている。自分の仕事はここでこうしている事だと言わんばかりの態度である。
現在、全ての眷属は引き払っている。数日前、正確には人間の女が魔王に刃を向けた日から、魔王の命令で眷属達は城の階下に広がる迷宮のみに配されて、城の上部の居住部は常にもぬけの空だった。世界の支配者はそのことには気付いていないようだった。いつもこの男が来るときは、この状態だからである。
「問題があるから来たのだ! 大人しくしておけと命じたはずだぞ!?」
支配者はヒステリックに叫ぶ。儘ならないこの魔王への怒りはすでに頂点を過ぎていた。
「勇者に助けられたあの女が城に残り勇者の支えになる予定だったのだ!? それで勇者とわりない仲となるというのに……このままでは私の娘が…ッ!」
「勇者に惚れるか?」
「言うな!!」
一人の父親として、忌々しさを隠さずに支配者は怒鳴る。余計なことをしてくれたな、と魔王を睨む。しかし魔王は目線を受け流す。その目は冷めて、侮蔑の色を湛えている。娘を奪われるということが、そこまで危惧し、恨めしいものか?
「――を女にすればどうだ」
「なんだと?」突然の言葉に支配者はうろたえる。その狼狽を面白がるように魔王は喉を震わす。
「貴様の心配事も勇者が男だからこそ。ならば女の勇者を仕立て上げれば、それも無くなるであろう。簡単な話だ」
支配者は手駒の魔王に馬鹿にされていることを自覚する。気分を害して支配者は顔を歪めた。支配下に置いているはずの魔王の方が何故優位のように感じるのか。腹立たしい。
「……ふん。しかしそうなると女ごときに敗れることになるぞ、魔王がな!!」
「どのみち滅ぼされるというならば、むさ苦しい男よりも女の方がまだ、気分も良いと言うものよ」魔王は眼を細める。「そうだな、若くていい女を希望しておこう」
込めた皮肉を言い返されて、男は拳を固く握り締める。自分の立てた筋書きを台無しにした魔王が、このように悠然としているのが、兎にも角にも鼻持ちなら無い、許せない。娘の心が他所の男の元へ行く前に進行中の物語の終演を決めた。
「口の減らぬッ! お前のせいで今回の話は滅茶苦茶だ! これ以上続ける意味は無くなった! 早々に勇者をここへ向かわせ滅ぼしてくれる! 覚悟しておけ!!」
支配者の通告を、魔王は顔色どころか眉一つ動かさずに受け止めていた。肩で息をし、支配者は最後に言い捨てる。「…女は生かしておけ。まだ利用価値があるかも知れんからな」
魔王の言葉が返される前に、支配者は姿を消した。いや、返事など必要ない、命令なのだ。
死の宣告を受けた魔王は、しかし、それでも口元を吊り上げている。
誰も居ない謁見場をゆるりと見回してから座ったままで肩越しに後ろを見遣る。玉座の天蓋から垂らされた、その前に座る者ほどにも重圧感を滲ませた織物の一角へと視線をやったまま話し掛ける。
「気配を隠すのが上手くなったな」
「――……」
織物が息を呑む気配。いや、奥に何者かが潜んでいる。
「気付かなかったぞ? この場に入るまでは」魔王は視線を正面の広間へと戻し玉座に背を預けた。あれから外れたか、と胸中で付け加える。
織物の挟間から女が一人現れる。手には仇敵を討つための短剣が握られているが、殺気は微塵も感じられない。
「今のは……随分と様子が違いましたが、我が妹の従者ではありませんか?」
震えた声には、座の背越しにでも動揺が感じられた。魔王の厭味など耳には入らなかった様子だ。
「先ほどの者は、確か――」ひと息、間を、置く。「ベーロンと言ったか」
ああ、と背中から女のか細い声が聞こえた。「一体、どうなって――」
女の独白と取ったか、魔王は何も言わず脇息に肘を付き、その手で自らの顎を撫でる。沈黙の中、女の気配だけが不安定に揺れている。そこに居るというのに、居ないようにも思われた。だが、確かに一歩近づく気配。
「勇者を…向かわせる、と――」
支配者と魔王のやり取りを頭の中で反芻させていたのだろう、引っかかった言葉が彼女の口を突いて出た。
「早々に、とも言っていたな」
他人事のように、魔王が続けた。
「どういうことなのですか? あれではまるで……」
彼女は言葉を切る。魔王の表情は変わらない。
「ただこの混乱が終わるだけのことだ」
「…終わらせられるのですね?」
鈍くない、それにしても冷静なものだ。
「余の命を取るまでの猶予は、あまりないぞ」
「分かっています」
躊躇いの無い返答に、魔王の笑みが微かに深くなる。
「それにしても」と女が口を利いた。
「まさか貴方が殺されたいと思っているなんて、思ってもみませんでした」
魔王の笑みが消える。「そう聞こえたと言うか?」
「聞こえました」
「勘違い甚だしい」
冷めた声で言い捨てる。振り返ったりはしない。女がこちらを見つめていることは容易く想像出来る。
「そう簡単には――」
「え?」
魔王の言葉が聞き取れず女が疑問の声を上げるが、魔王は沈黙する。彼に残った時間はあと僅かだ。しかし、その心に焦りは無い。準備は大凡整った。あとは上手くやれるかどうかだ。
――そう簡単には滅びはしない。
魔王の魂は転生する、その強大な魔力と共に。前身のことは記憶に無いが、この前に座していた魔王が勇者に倒された記録はある。それが自分の意思で行動した結果ならまだしも、それは他人に押し付けられた仕事だったというのだから、なんとも愚かな話だ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
これまでもそうしてきたのか、魔王に接触してきた支配者に役としての働きを命じられて、よくもまあ今までの魔王がこの人間の言葉に従ったものだと、自らの魂を罵った。それとも、自分と同じように見せかけて、失敗してきたのだろうか。かつてはそんな疑問も浮かんだ。しかし、魂はそこに在るだけ。記憶までは保持しない。どれほど疑問を投げかけようと、所詮は一方通行だ。出ない答えを望むよりも、全てを終わらせることを考えた。
黙考から周囲へと意識を戻すと、女の気配が消えていた。謁見場から出て行ったらしい。
仇を討つ絶好の機会だったというのに、何を考えているのやら。もっとも幾ら不意を突こうとも、女一人、腕力のみでも捩じ伏せられる。だが、殺しはしない。
支配者の命令だからではない。
――あれは余にこそ、利用の価値があるのだからな。
魔王の口元に笑みが戻り、声無く喉が震わされる。
「あと少しだ」
稀なことに、大魔王はそんな独白をした。
その言葉の真意を知る者は、他に在りはしない。